煩悩とさとり

 

私たちは普段、いろんなものを二つに分けて判断しています。「生」か「死」か、「損」か「得」か、「敵」か「味方」か…など最大の二つに分割して考えることで、多くのことをわかりやすくしているのでしょう。特に余裕がない状況では、こういった判断の傾向はますます顕著になってくるようです。現在、社会の格差が大きく開き、「勝ち組」「負け組」といった言い方をされるようになってしばらく経ちます。自分自身を「勝ち組」「負け組」と考えること自体に、何か底知れないさびしさを感じてなりません。仏法では、本来は分けることのできないことを、分けてしか考えられないことによって、苦しみや不調和が生じるといいます。

 

かつてイラク戦争の時、アメリカのブッシュ元大統領が「自分たちの味方でないものはすべて敵」といった主旨の発言をしました。どちらでもない立場を認めない姿勢に唖然とした記憶があります。物事をきれいに二つにわけ、敵対するものを排除する考え方は、西洋ではずいぶん昔から深く根付いているのかも知れません。

古代ローマ帝国はヨーロッパからアフリカ北部までを席巻しました。その領地拡大の戦略は、基本的に攻め入った国の人々を滅ぼして、自分たちが入っていくというものでした。ちょうど同じ時代、中国ではいろんな国が生まれたり滅んだりしていましたが、攻め入った国の人々を、自分たちの国民へ変えるという戦術だったそうです。面白いことに現在のゲームの中にも、このような考え方が色濃く残っています。将棋とチェス、どちらもインド発祥のもので、ルールの違いの一つに、チェスは、取った相手の駒は二度と盤上に出てこない死に駒ですが、将棋では相手の駒を取ると今度は自分の駒として再び盤上に現れます。真反対のことがらが転換される東洋の思想がよくあらわれているひとつでしょう。

 

少し前に亡くなられた心理学者の河合隼雄先生が、エッセイの中で興味深いエピソードを紹介されていました。

 

あるお母さんが河合先生のところへ相談に来られました。というのも、幼稚園のわが子が身体的には何も問題がないにもかかわらず、言葉が非常に遅れているというのです。子どもにどのように接していたか聞き取りをしてみると、この母親は子どもに「自立」させることを最優先して、何でも一人でさせる子育てをしていました。添い寝をしないで一人で寝せ、はじめは泣いて嫌がっていた子も、やがて一人寝に慣れ、親戚の者にも感心されるほどだったようです。しかし言葉の遅れの原因がここにあることを母親に指摘し、子どもと濃厚に接することをアドバイスされました。この子はこれまでの寂しさを取り返すように甘えてきて、あっという間に言葉が普通の子のレベルに戻ったといいます。

 

右の例を考えてみると、このお母さんは、「自立」は「依存」をなくしたものだとの思いで子育てをしていました。しかし本当の自立は、十分な依存によってのみ成り立つのです。「依存」、「甘え」という言葉は、あまりいいイメージではありませんが、子どもにとって自分のいのちが根本的なところでしっかりと支えられていることを意味します。「甘え」は良くないと思われる方もいるかも知れませんが、私たちが今生きているということは、一人の例外もなく赤ちゃんの時に百パーセントの依存、甘えがあったことにほかなりません。依存なくしては生きていくことは不可能です。

 

よく母親につきまとい、服をつかんで離さない子どもがいます。こういう子に「離しなさい!」と叱るのは逆効果で、ますます親から離れられなくなります。慈しみのことばの中に抱きしめ、愛情を伝えることによって、自然と子どもの手が離れていくのです。

河合先生は次のような言葉でエッセイを結ばれています。

 

「人生のなかには、一見対立しているように見えて、実はお互いに共存し、裏づけとなるようなものが、あんがい多いのではないか、と思われる。そのような目で自分の生き方を見てみると、必死になって排除しようとしていたものに価値があることがわかるのではなかろうか。その発見によって、生き方に厚みがでてくると思われる。」

 

親鸞聖人は曇鸞大師のご和讃に

 

本願円頓一乗は

逆悪摂すと信知して

煩悩・菩提体無二と

すみやかにとくさとらしむ

(註釈版五八四頁)

 

無碍光の利益より  

威徳広大の信をえて 

かならず煩悩のこほりとけ  

すなはち菩提のみづとなる

(註釈版五八五頁)

と顕されます。完全なる本願の救いは、仏法に背いて生きるものを救うと知らせ、煩悩と菩提(さとり)の本体がひとつと見れる境地に速やかに至らせます。その煩悩と菩提を氷と水に喩えて、他力の信により煩悩(氷)がそのまま菩提(水)に転じられ、深く重い煩悩(氷)だからこそ、得られるさとり(水)は広大なものであることを明らかにされます。それは煩悩を否定する必要のない救いです。宗祖は、この救いに出遇えたことを『教行信証』の最後には「慶ばしいかな、心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹 た て」と、本願の広大な大地に樹木のように根を張り、しっかりと支えられて生きる身となっていることを大いに慶ばれました。


(たかまつ しゅうほう 真宗学寮理事長・広島仏教学院長・西向寺住職)