澍法会法話

『宝章』昭和十五年三月号・四月号より転載

 

浄土真宗のご安は、蓮如上人様が『御文章』の上で詳(つまび)らかにご化導(けどう)に相成(あいな)ってあります。ところが『御文章』の依所(よりどころ)は、釈迦如来様のお説き遊ばされた『大無量寿経』の中の本願成就の御文であります。これは第十八願がととのうたぞよという、ご披露であります。第十八願の御文は善導大師の六字釈―南無阿弥陀仏の名号のおいわれのご講釈があります。この二つが『御文章』の依り所でありまして、ご当流にとりましては最も大切なご法門であります。

 

第十八願のご成就では「聞其名号信心歓喜(もんごみょうごうしんじんかんぎ)。」これが真宗のご安心であります。文字で書けばわずかに八文字、ここがもらわれたら極楽へ詣れるのであります。長いことはない、文字は八字で詣られる。

 

ところが「聞其名号」とは、これは信心を戴(いただ)かしてもらわれる方法であります。信心とは一体どうして頂くものか。口にもらうんでもない、眼から頂くのでもない、耳から心に名号のおいわれを聞き分けるばかりで信心がいただかれる。戒行(かいぎょう)も持(たも)たず坐禅もせず、無善造悪(むぜんぞうあく)の凡夫のまま、南無阿弥陀仏が聞こえただけで、今度の後生は極楽へ往生が定まって下さる。その信心をもろうたすがたはどういう相(すがた)か。信心とは親様のお喚び声が聞こえたばかりで、往生に安心ができた。この他には何もありません。

 

そこで肝心(かなめ)は、先(ま)ず聞き方。お聞かせにあずかるとはどういう事を聞くのかと申せば、南無阿弥陀仏のおいわれを聞かせて頂くのであります。これが「聞(もん)」の一字であります。蓮如様は「聴聞にこころをいれて申さば、御慈悲にて候う あひだ必ず信をうべきなり」と仰せられて、決してむつかしい事ではありません。信心が獲られぬというて苦しむお方もあるが、何のようもなく、何のわずらいもなく、造作(ぞうさ)なくもらわれるご信心であります。しかしながら、もし私がとり損(そこ)のうて難しい事にかかれば、なんぼうでも難しくなるのが他力のご信心で、聴聞を心にいれてみれば私の手元には何の様(よう)もなく、造作なしにもらわれるのであります。そこで聞き様(よう)が大切であります。

 「聞くといふは、ただおほやうに聞くにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六の字の いはれをよく聞きひらきぬれば」、善知識のご教化におうて、おいわれをよう聞き分けるのであります。よくよく聞き分けてみれば、「報土(ほうど)に往生すべき他力の信心の道理なりと心得られたり。」―うわのそらで、おおように聞いただけではお味わいが分からん。よう聴聞せねばならん。よおく聴聞してみれば、必ず―必ずでごわすで―ご信心は必ず得られるものであります。「聞くといふは」今度は御開山が仰(おっしゃ)る。「衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心(ぎしん)あることなし、 これを聞くといふ」―聞くとは何を聞くかなれば、仏願の生起本末をきくのじゃ。「生起」とは御本願のもとのおこり、如来の本願のおこりとは他所(よそ)にはない、この私の胸の中、よそに起こりがあるのではなくて浅ましい凡夫の胸の中がご本願のおこりであった。三毒五欲(さんどくごよく)の煩悩で朝から晩まで妄念ばっかり、ええことは一つもない、よう考えて見れば入り用な事は一つもないのに、要らん事ばっかりに苦労をしておるのが私共の胸の中であります。後生(ごしょう)菩提(ぼだい)も思わず、捨ててゆく境界のことばかりに耽(ふけ)って、有るわ無いわで日も足らぬ。これでは未来は三悪道に決まっておるのが、お互いの浅ましい胸の中であります。

 

十方諸仏も恒ごうじゃ 沙の菩薩もこれではどうする事もできません。仕 しよう 様がないのでお捨てなされた。

かわゆうないのじゃないが、どうにもならんのであります。「抑(そもそ)も男子(なんし)も女人(にょにん)もつみのふかからんともがらは、諸仏の悲願をたのみても、いまの時分は末代悪世(まつだいあくせ)なれば、諸仏の御ちからにては中々かなはざる時なり」。何分時節(じせつ)が悪いで聖道自力の諸仏様のご済度では手がたわん。「さるほどに諸仏のすてたまへる女人を、阿弥陀如来ひとり、我われたすけずんばまたいづれの仏のたすけたまはんぞとおぼしめして、無上の大 だいがん 願をおこして、我 われ 諸仏にすぐれて女人をたすけんとて、五劫があひだ思惟し永劫があひだ修行して、世にこえたる大願をおこして」―ここに阿弥陀様の三世の仏にためしのない、広大不思議の御苦労が始まって下されたのであります。その御約束をいただいてみれば「一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚とらじとちかひ給ひて南無阿弥陀仏となりまします。」南無阿弥陀仏の生起(おこり)は諸仏様にさえど捨てられたような、この浅ましいお互いの胸の中、これこそが親様の御苦労の本(もと)であります。

 

このどうにもならん自分の胸の中を眺めて、これをどうしようかと苦労をなさるお方があるが、あれがご本願の生起(おこり)なんで、あのために五劫の間もご思案なされ、たうどう工夫がついて、煩悩のおこるあの心のまんま、罪を造るあのすがたのまんま、おかげ一つで助かる謂(い)われが南無阿弥陀仏の中に出来上がって下された。聞くというのは外(ほか)じゃあない、あのお謂われを聞けよ、ご本願の生起(しょうき)とは、あのお謂われを聞くのぞよと仰る。

 

この親様のご苦労の本を聞いてみれば、煩悩の起こるのを今さら悔やむには及ばん、あれこそがご本願の本のおこりになったもの、これをどうしようかどころじゃない、こういう者なればこそ、わざわざの御苦労下された本願とは、何たるお不思議でござりましょうかと、お戴きさせてもらわねばならんのであります。これが仏願の生起を聞くのであります。

 「本末」というのは本(もと)から末(すえ)まで、一部始終ということであります。ご本願の本から末まで、一部始終をみんな聞けと 仰れば大変なことのようなれども、本のおいわれも私ゆえ、末のおいわれも私ゆえ、何もかもたうどうが私ゆえのお御苦労であったと、聞かせてもらうのであります。これが阿弥陀様のご本願の聞きぶりであります。

 

本から末まで一部始終、何もかもがみんな私ゆえの御苦労と聞いてみれば、参れるか参れんかの案心(あんじごころ)はいらぬこと。親様が弘誓(ぐぜい)の船の横付けで、そのまま乗せて必ず渡すぞよのお喚び声なら、乗れようか乗れまいかと案ずる用事はちっともない。

 

極楽浄土も私ゆえに出来たお浄土、参られんはずはない。永(なが)の迷いのその間、五道六道で苦労をしたが、十万億土の西方には私ゆえのお浄土ができとる。この広大なお味わいの聞こえたまんまが、とりもなおさずご当流のご信心であります。

 

この信心が頂かれたら極楽浄土の往生が定まる。浄土の往生の因たね はこのご信心じゃて、当流の肝要は信心一つ。その信心のすがたは別にむずかしい事がいるのではない、疑いの晴れられたのが信心であります。疑いが晴れるというのはどう晴れられるのでございましょうか。― 今 まで参れようか、参れまいかと案じよった所へ、「ここに親がおるぞ ―、この親がつれて還る のぞ ―」と、南無阿弥陀仏のお喚び声が聞こえて下さった。これが聞こえて下されば、詣られまいかと案ずる用事はさらにない。お喚び声のまんまが聞こえたら、「おかげに助けられて参れること」と、安心さして戴く外にはない。これがご信心のもらいぶりであります。

 

昭和十四年五月十三日   於龍野町光善寺

 

(真宗学寮初代学頭)