如来の直説

(山本正念編『髙松和上御示談御法話集』より転載)

 

衆生のこころをしつらいたもう。しつらうというは、衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御くわえ候いて、よくめされ候。衆生のこころをみなとりかえて、仏智ばかりにて、別に御みたて 候ことにてはなく 候。

 

しつらうとはとりつくろう事であります。結構にするのであります。家を修繕して綺麗にするようなものであります。如来様が今この度、このあさましい凡夫をとりつくろうて、結構にして下されます。然るに、これは、このわれわれの現在煩悩悪業のみだれにごれる、此の根性を取りかえて、如来様の御心(おこころ)に、この境界にいる間から、なされるという事であります。しつらうというのは、凡夫の心をそのままおきて、よくめされ候なり、とありますように、如来様が、私の心をとりつくろうてきれいにして下さいます。私が、自分の心を、自分でつくろうのではありません。如来様が、あなたの御手許(おてもと)で、きれいにつくろうて、ほどよくして下さるのであります。私の心が、この世から、きれいな仏の心になるというのではありません。きたない家をとりつくろうて、立派にするようなものであります。きたない家をとり払うて、美しき殿楼(でんろう)を建てかえるのではありません。

 

説教で聞かせていただく「そのまま」という事は、真宗ではない事である。真宗では信心がなくてはまいれぬ。とこう申すものがありますが、いかにもそのままとは、信心を入れずの、信心なしの、疑いのあるままのそのままではありませんが「そのまま」という事に、この通りにお聖教にも、あることなのであります。そして、ここに、そのままとは、信心をいれずのそのままではありませんが、ここの、そのままは、生れついた蛇(じゃ)の心のまま、鬼の心は鬼の心のままのそのまま、癇癪(かんしゃく)の心は癇癪の心のまま、元の心のそのままという事であります。あの根性、元の心は、今生にいる間に、なおるのではありません。衆生貪瞋煩悩中(しゅじょうとんじんぼんのうちゅう)、能生清浄願往生心(のうしょうしょうじょうがんおうじょうしん)、いかり、はらだち、ほしい、おしいの心のあの中に、お慈悲のとどいて下さるすがたは、おかげでまいらせてもらう、あの外には何にもありません。此の私の根性が、こっとり入れ代って、生れかわったようになるのではありません。私の生れついた根性のまま、あの機のなりをそのままおきて、願力のおかげでまいらせてもらう。元の根性のまま何のかわりも無いが、下されしお了解の味わいはただ一つ願力のおかげで助けていただく事よとただこれであります。

 仏法は如来様が御化導(ごけどう)下され如来様がお助け下されるのであるという事を、よく腹にいれぬと、お慈悲の力づよさが分りません。

 

仏法は、三千界(さんぜんかい)に、比べがえがあるようなものではありません。釈迦如来を人間にくらべて、かれこれ申します。まことに大変なまちがいであります。

 

これは娑婆(しゃば)三千界からあらわれた法門ではありません。お浄土から、わざわざあらわれ下された仏様のお教え、それが仏法であります。これを人間の教えのように考えると、分らぬ事になります。善導大師のお聖教には仏語じゃぞよ、仏語じゃぞよとくりかえしてあります。凡夫の云う事にだまされなよ。これは仏語じゃぞよ。この仏語のお言葉という事をよく心得させて貰わぬと、真宗のみ法は分りません。仏のことばなればこそ、この仏法がありがたいのであります。

 

この如来様がわれわれの往生の大事を教えて下さいます。唯信鈔(ゆいしんしょう)にあります。旅に出るにはよく事の分った人に、道をよく問うてから旅へ出よ。そうすれば、途中、千人の人がおまえの道は違ごうているというても、初めにきいたのが、ほんまになっておれば迷わされる事は無い。あの人この人の言うた説、又場合によりては、自分の考えを今もってきて、後生をかれこれと疑います。あれが、何かというと、仏から教えてもろうているという仏という事がよく分らぬからであります。前生(ぜんしょう)もわからぬ、後生(ごしょう)もわからぬ凡夫の言葉は、何のやくにもたちません。

仏から、教えてもらうのであるから、たとえ凡夫千万人が、おまえのは、ちがうというても「私の後生は、仏様におしえられて、仏様に助けてもらう後生じゃ」ここに腹が据(すわ)わるのであります。

 

(真宗学寮初代学頭・本願寺派勧学)