『先手の救い』

 

私が二十歳前後の頃、真宗学寮の講会でお聴聞をさせていいただいた時、ご講師が「救いが先手、たすかるが後手。救いが先手、たすかるが後手」と、繰り返しお話くださったのが強烈な印象として残っています。しかしその言葉に対し、あまり説明をされませんでしたので、当時の私にはそれがどういうことを意味するのかよくわかりませんでした。そのことを味わう出来事がありました。

 

ある寒い冬に、自坊近くのお家のお参りを済ませ、スクーターでお寺まで帰る途中のことでした。バックミラー越しに、若い男の子たちが全速力で私のバイクを追いかけてくる気配が見受けられました。ただならぬ様子に、なにか変な事件に巻き込まれたくないと、スピードを上げようかと思ったその時、追いかけてきた一人が「あのー!これ!」と、走りながら差し出したものが目に入り、ようやく状況が飲み込めました。

 

高校生だったのですが、手にしていたものは私の手袋の片一方だったのです。慌ててスクーターを止めました。思い返してみると、スクーターに乗る時、手袋をシートの上に置き忘れたまま発進していたのです。走行中、何かのはずみで片方が落ちたのを高校生が目撃し、お寺さんに届けようと、バイクに追いつくほどのスピードで追いかけてくださったのです。

 

受け取った時、まず「よかった、助かった」と思いました。というのも、その手袋は誕生日に家族からプレゼントされたばかりのものだったからです。そして「ありがとうございました!」と、高校生二人に何度も何度も心の底から御礼をいいました。それと同時に「恥ずかしい」という思いがこみ上げて来ました。自分が手袋を落としていることにも気づかず、折角それを届けようとされている人にも気づかず、むしろスピードを上げて逃げようとしたぐらいですから、申し訳ない思いすらしました。これらのこころは、わたしの心がけなどから生まれたのではなく、すべて高校生の行為によって起こさせられたものです。

 

浄土真宗の教えを「救いが先手、たすかるが後手」といわれるのは、まさにこのようなかたちをしているからです。ほとんどの宗教では私の行為が先にあり、それに神仏が対応しますので「たすけてが先手、救いが後手」となりますが、浄土真宗の救いはこれが真反対なのです。私の状態に対して見るに見かねて、たのみもしていない私に、阿弥陀如来が先回りしてはたらいてくださっています。

 

それに対し私たちはどうかというと、『浄土和讃』の「摂取」の左訓には

「摂(おさ)めとる ひとたびとりて永く捨てぬなり 摂はものの逃ぐるを追わえとるなり」

とあり、親鸞聖人は背を向けて逃げているとおっしゃいます。

「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり・・・」

阿弥陀仏となられ十劫ものあいだ逃げ続けていたとも、馴染みの深い最初の和讃からもうかがえます。

 

では、阿弥陀様が見るに見かねている「私」とはどういうありさまなのでしょうか。

 

数年前、以前からご縁のあった年配の男性から、代理の方を通じて次のような連絡がありました。長い間、お寺の世話やお聴聞をしてきたが、自分には何にも残っていない、このまま死んでいくのは恐ろしくてしょうがない、病室へ法話に来ていただけないかというものでした。私にとって、死を目の前にされた方に法話などしたことがありませんでしたので、僧侶としての本分を全うできるか大きな不安を抱えながらも、普段からお聞かせいただいていることをお取次ぎさせてもらおうと病院へ向かいました。

 

チューブや医療機器につながれて、ベッドの背もたれを立てて身を委ねておられるお姿があり、付き添いの方に容態をうかがいながら、このような内容のことをお話させていただきました。

「僧侶であることによって私の心に立派なもの、確かなものがあるように見えるかもしれませんが、私にも何にもないんです。だから阿弥陀さまは法蔵菩薩の時、大変なご苦労をされました。五劫のあいだ何ももっていない私を、もっていないままにさとりに至らせる方法を考えぬき本願を建て、兆載永劫の果てしない時間の修行により南無阿弥陀仏と成られました。ありとあらゆる徳をその名にこめて「必ずすくう」と呼びかけ続けてくださってます。私の心の受け取り方などによって微塵も左右されない確かなことです。私も何もないままお浄土に参らせていただきます。何の心配も要りません。大丈夫です」

 

別れ際に、嗚咽をもらしながら手を握りしめて下さいました。

 

阿弥陀仏の本願の発端が、清らかさやまことを全く持ち合わせていない、迷いの最も深い位置にいるものを救うところにありますので、漏れるいのちはひとつもありません。迷っていることにも気づかず、煩悩の身の自覚もなく、何が真実かもわからないまま逃げ続けている私を、「たすかる」まで、決してあきらめることなく、如来のまことごころ何とか届けようとされています。仏になるのに足しになるものを一切持ち合わせていないがゆえに私に先立ち、如来の側で完全なものとして仕上げてくださっていることがらが、どれほど頼もしく力強いものであるか、いただくばかりです。

 

(たかまつ しゅうほう 真宗学寮理事長・広島仏教学院長・西向寺住職)