理事長挨拶


 明治時代、寺院子弟の中で京都で浄土真宗を学べたのは、経済的理由より後継者に限られました。そこで、地方で誰もが負担なく学べるよう、安芸の僧侶、お同行が尽力いたされ創立されたのが真宗学寮です。ご報謝で講義下さる先生方や多くの皆さまに支えられながら、今日も授業料不要という建学の精神が貫かれています。

 また、大正 12 年(1923)には本願寺の認可を受け広島仏教学院が併設され、専門的な宗学研鑽に加え、基礎的な仏教知識の習得とともに僧侶養成の学校としても機能することとなりました。以来、得度を目指す入門者から、より深く真宗を学ぶ人まで、僧俗問わず遠近より様々なかたが受講されています。

 初代学頭の髙松悟峰和上は次のようにいわれます。

「結局はお聖教の真意がどこにあるかということを学ばせていただくほかはありません。ご法義の真実のお味わいをいただかせてもらうことを第一番にして、宗義の研究をなさるように」

 仏教学院は一年間、真宗学寮は年限なく、現に私のいのちへはたらいている深遠な救いの教えを学んでいく場です。

 

真宗学寮・広島仏教学院理事長 髙松秀峰

真宗学寮の沿革


1906(明治39)年5月 「真宗学寮」が西向寺内に創設
1923(大正12)年 本山より認可され「広島仏教学院」を併設
1926(大正15)年 

真宗学寮が現在地(広島市西区南観音)に移設

「仏教宝章会」(後に「真宗学寮宝章会」と改名)が設立

1930(昭和5)年

財団法人の認可を受ける

1945(昭和20)年8月6日 原子爆弾により講堂、寄宿舎損壊 被爆者の救護所となる
1953(昭和28)年 単立の宗教法人として認証される
1957(昭和32)年 講堂・寄宿舎を修復
2006(平成18)年 真宗学寮 創立百周年慶讃法要勤修

真宗学寮と仏教学院の特徴


誰でも ― 初心者から専門領域まで ―

・真宗学寮は専門的な宗学を、また広島仏教学院では基礎から真宗学、仏教学、仏教史、宗教学、勤式・伝道を学ぶことができる

・10代から年配者まで、幅広い世代の学生が受講

学びを支える環境

・真宗学寮は授業料不要(広島仏教学院は授業料が必要)

・寄宿舎あり(個室)

・一人ひとりの学びを大切に指導

であう場

・一生変わらない「人生の意味」にであう。

・願われてる存在としての「私」にであう。

・学びを共にする「仲間」とであう。

 


110年の歩み


髙松悟峰和上(1866-1939)

高松悟峰和上
高松悟峰和上

髙松悟峰(たかまつごほう)和上は、慶応2年(1866)1月1日、広島県安芸郡中野村(現在の広島市安芸区中野)の随泉寺に次男として出生された。幼名を秀若(ひでわか)といった。

 

20歳のとき足利義山師に師事し、24歳で得度、法名を悟峰と授けられる。同じ年、本願寺大学林(現在の龍谷大学)高等科に編入し、卒業後、富山徳風教校の教授に就任された。

 

明治31年(1898)、同教校を辞任して、広島・西向寺の髙松家に入籍し、2年後に住職となられる。進徳教校の教授を拝命するが、明治39年(1906)に辞職、同年設立された真宗学寮の初代学頭に就任される。龍谷大学教授職の打診もあったが固辞、爾来三十数年にわたり地元学寮での子弟薫育に没頭された。

 

その間、46歳で司教を、55歳で勧学職を授けられる。この司教・勧学時代に精力的に講録・著書を出版され、『大無量寿経講義』『真宗教典釈義大綱』『観経四帖疏講述』『元高両祖要題』『往生論註撮要』などを残された。さらに、大正15年(1924)発刊の『宝章』に毎月欠かさず法話を掲載して、教化に努められた。

昭和14年(1939)7月1日、脳卒中に倒れ、翌2日、安祥として往生された。享年74歳。

黎明期の真宗学寮

創建当時の講堂
創建当時の講堂

悟峰師の深い学識と卓越した指導力は、多くの人々の心を捉え、宗学を志す門弟や同行たちが西向寺に集うようになり、明治39年(1906)5月、ついに「真宗学寮」が創設された。悟峰師を学頭として西向寺内に置かれたこの私塾は、「地方で誰でも宗学が学べる研鑽道場」という理念により、無料で受講できるという体制が終始貫かれた。

大正9年(1920)に悟峰師が勧学和上になられて以来、学寮の活動はさらに広がり、大正12年(1923)、「広島仏教学院」が併設され本山の認可を受けた。これにより学寮は専門的な宗学研鑽に加え、基礎的な仏教知識を養う場としても機能することとなり、得度を目指す入門者からベテランの宗学者まで、多くの真宗僧侶や同行で賑わうようになった。

 

 真宗学寮が南観音に移設された大正十五年(1926)、「仏教宝章会(ほうしょうかい)」(後に「真宗学寮宝章会」と改名)が設立されている。

これは悟峰和上を慕う各地の同行を中心として結成された聴聞・布教機関で、聴聞誌『宝章』を毎月発行、さらに悟峰和上らを各地に招いて出張講会などの行事が行なわれた。

各地に支部が設立され、広島市内はもとより、呉や瀬戸内島とうしょ嶼 部、最盛期(昭和四年頃)には山口、福岡、大分、熊本から、韓国、ブラジルにまで広がりを見せ、77支部、会員数約6300人にのぼったという。昭和五年(1930)、真宗学寮は財団法人の認可を受けた。

戦後の復興から、新たな時代へ

しかし戦時の経済統制下『宝章』は昭和13年(1938)頃に廃刊、活動も全般的に制約を受けざるをえなくなった。

昭和14年(1939)7月、学寮の柱であった高松悟峰和上がご往生された。藤澤教聲(きょうしょう)和上が学頭に就任、悟峰和上の遺志を受け継がんと、道俗ともに決意を新たにする。

しかし、昭和20年(1945)8月6日、広島を原子爆弾が襲う。学寮の建物も半倒壊するが、幸いに焼失は免れ、被爆者の救護所となったという。

その惨禍も癒えぬ敗戦後の混乱の中にあって、教聲和上や同行の尽力により復興、学寮と仏教学院の講義はほどなく再開された。

昭和25年(1950)には宝章会により『宝章』も復刊した。さらに、昭和28年(1953)の宗教法人法施行とともに、単立の宗教法人となり、新たな組織編成がなされた。

 

 

昭和32年(1957)に講堂・寄宿舎が本格的に修復され、昭和40年(1965)には「仏教研究会」が結成、西向寺を会場として仏教と真宗の基礎講座が開かれた。これは今でいうカルチャーセンターの先駆けともいるが、後に広島仏教学院夜間部に発展していく。

昭和25年に復刊していた『宝章』誌は、編集上の困難などから昭和43年(1968)に途絶えていた。しかし昭和52年(1977)、別冊号として再復刊、以後、年刊誌として再出発した。

 

平成28年(2016)、創立から110年の歳月を数える。