阿難尊者

 

釈尊がクシナーラで入滅され、二十一日間にわたる葬送儀礼を見届けた仏弟子たちは、リーダーの大迦葉(だいかしょう)の提唱により、正法を伝え教団の結束を図るため、経と律の結集(けつじゅう)を行なうことを決め、五百人の大阿 あらかん 羅漢をメンバーとして選んだ。結集が始まる雨安居(うあんご)の日まで四十日間の猶予があったので、メンバーは各々の所用や準備を済ませるため一端解散した。

 

そのうちの一人、阿難は釈尊を失ったショックがいまだ尾を引いていたが、やがて釈尊の遺品の鉢と衣を携えて、思い出の地、祇園精舎に向かった。馴染の信者たちは、生前は釈尊にいつも随行して来ていた阿難が一人で来たのを見て、改めて悲しみの涙にくれた。阿難は無常についての法話をして信者を元気づけようとしながらも、自らも涙を禁じえなかった。阿難は精舎の掃除をしたり、香を焚いたり、釈尊在世中と同じ日課の仕事をしながら「世尊、沐浴のお時間ですよ」「ご法話のお時間ですよ」などと呟(つぶや)いては涙を流した。

 

そこに天の声が聞こえた。「阿難よ、あなたがそんなに嘆いていて、どうして皆の心を慰めることができようか」と。雨安居が近づく頃、阿難は結集の会場となるラージャガハ(王舎城)に入った。そのときある仏弟子たちが言った。「この辺に臭い息を吐きながらうろうろしてる仏弟子がいるぞ」と。阿難は悲しみのため体調を崩して口臭が臭くなっていたので、自分が非難されていることが分かった。一人の仏弟子が忠告した。「明日は結集の日だが、メンバーは皆、大阿羅漢だ。お前はまだ阿羅漢の悟りを得ていないから本当は参加資格がない。怠らないでくれ。」と。その夜、阿難は釈尊の生前の言葉を思い出しながら、夜を徹して行に励んだ。明け方になり、疲れて仮眠を取ろうと横になろうとしたとき、頭が枕に付くまでの間に、阿難は阿羅漢の悟りを得た。夜が明けて結集会場に現われた阿難を見た大迦葉は、一目で開悟したことを見抜き、釈尊がご覧になったらさぞ喜ばれただろうと感じ、釈尊になり代わって阿難に賛辞を与えた。こうして阿羅漢となった阿難は、経典編纂の主任として結集を完遂したのである。
(ブッダゴーサ『長部経典註』序文より取意)

 
『大経』と『観経』の対告者として名高い阿難尊者(アーナンダ、阿難陀)は、釈迦族出身で釈 尊の従弟と伝えられます。一説には釈尊の実子羅 らごら 睺羅(ラーフラ)と同じ年に生まれたとも言われ、釈尊とは約三十年程の年差があったようです。

釈尊が五十代半ばに差しかかった頃、若い阿難尊者は釈尊の侍者に抜擢されます。以来、八十歳で入滅されるまでの約二十五年間、阿難尊者は釈尊の行く先々には必ず随行し、高齢となった釈尊の身の回りの世話をして仕えていました。そのため、自ずと釈尊の説法に接する機会にも恵まれました。あちこちで釈尊が説かれた法をいつも間近で聞き、一語も漏らさず記憶したといいます。のみならず、侍者になる前になされた釈尊の説法も他の仏弟子から聞き回り、それもすべて記憶しました。つまり、釈尊の一代四十五年間のすべての説法を伝持していたのです。そこで、数ある仏弟子の中でも最も多く法を聞いた「多聞第一(たもんだいいち)」と讃えられています。後に釈尊の教説がまとめられた「結集(けつじゅう)」で大きな役割を果たすことになる所以です。

 

それだけ多くの法を聞いておりながら、阿難尊者は実践面では中々成果が出せませんでした。釈尊の在世中には修行を完成することができず、仏弟子の最高の悟りである阿羅漢果(あらかんか)を得られなかったのです。仏弟子の悟りには、煩悩をどの程度断じ終えたかによって、預流(よる)・一来(いちらい)・不還(ふげん)・阿羅漢の四つの階梯の証果があります。煩悩をすべて断じ尽くしたのが阿羅漢で、もはや学ぶべきものがない「無学(むがく)」と呼ばれる聖者の最高位です。大迦葉尊者をはじめ高名な仏弟子の多くは阿羅漢果を得ていました。しかし阿難尊者は、早い段階で預流果には到達したものの、それ以上修行が進むことなく、結局そのまま釈尊の入滅を迎えてしまいます。

それは、尊者の優しく世話好きな人柄に起因していたように思います。教団内の阿難尊者は人望が厚く、何かと人の相談に乗ったり頼られたりする姿が伝えられています。特に女性から圧倒的な支持を得ていました。交流が制限されていた比丘尼教団に、気軽に足を運んでは説法したり指導したりして比丘尼たちの人気を博していました。そのようないわば人のよさのゆえに、修行の面では阿難尊者は厳しさに欠けていたと言わざるを得ません。

 

冒頭の引用には、釈尊入滅後に阿難尊者が阿羅漢の悟りを開くまでのいきさつが示されています。大迦葉尊者は、釈尊不在の中、正法が廃れ教団の結束が乱れることを危惧し、早速に経(教説)と律(規則)を編纂する「結集」を提唱しました。その際、信頼のおける阿羅漢の聖者だけで結集を行なうと決めました。阿難尊者はそのとき阿羅漢果を得ていませんでしたので、当然参加資格はなかったのですが、釈尊の説法をすべて記憶している多聞第一の尊者を抜きには、結集はなしえないということで、例外としてメンバーに加えられたのです。

 

しかし、いつまでも悲しみに暮れてぐずぐずしている阿難尊者が、結集に参加することを快く思わない仲間もいたのです。阿難尊者はようやく一念発起して、結集開始の当日の朝に阿羅漢の悟りを開きます。右の引用に、阿難尊者が仲間の仏弟子に忠告される場面がありますが、その中で尊者は「怠らないでくれ」と非難されています。体調を崩して悪臭を放っている阿難尊者に、結集に参加したいならもっとシャキッとしろという忠告であったのですが、奇しくもこの「怠るな」という言葉は、釈尊の入滅直前の言葉でもありました。つまり釈尊は「諸行は消えゆくものです。怠らず励みなさい。」という言葉を残して入滅されていました。おそらくその仲間のひと言によって阿難尊者は目覚めたのでしょう。それまでの二十五年の歳月が長い長いプロローグであったかのように、修行は一晩で完成してしまいます。そのとき初めて阿難尊者にとって機が熟したといえます。

 

釈尊は侍者を設ける際、直々に阿難尊者を指名されたと言われます。おそらく、その面倒見のよい気遣いのある性格が買われたのが第一でしょうが、同時に釈尊は、尊者の抜群の記憶力が正法を伝持するに相応しく、語り部のような役割を託すためのようでもあります。そして何より、阿難尊者を何とか悟りに導きたいと考慮されたものとも思われます。阿難尊者は、釈尊の教えを聞くだけで満足して修行を怠っていました。釈尊に絶大の信頼を置き、むしろ頼り切っていたのです。その大切な支えを失って初めて、諸行無常の教説の意味を知ることになります。それまでは単なる言葉の記憶にすぎなかったものが、初めてリアルに意味をもった「教え」として蘇ったのです。釈尊はそこまで見越して阿難に常に教えを聞かせ、聞きためた教えが自然に悟りに導くように仕向けた、巧みな教導であった。そのように承ります。

 

この阿難尊者を主導者として経典の結集は行われました。最初に大迦葉尊者が阿難尊者に尋ねました。「阿難よ、あなたはどのように教えを聞きましたか?」阿難尊者は自信を持って答えます。「私はこのようにお聞きました。」
—この言葉が「如是我聞」と訳されることになります。この経典冒頭の決まり文句には、阿難尊者の釈尊に対する深い信順が込められているのです。

(あおはら のりさと 広島仏教学院講師・眞光寺住職)