『念仏を感じる ―真宗カウンセリング⑧―』

 

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと(略)いかにと候ふべきことにて候ふやらん(以下略)

 

これは『歎異抄』第九条で、唯円房が親鸞さまにした質問です。念仏申しつつ暮らしているのですが、躍り上がるような喜びを感じることができません。お経には「かの仏の名号を聞くことをえて歓喜踊躍して乃至一念せん」(『無量寿経』)と、「阿弥陀如来の名号を聞いて歓喜踊躍する」と示されているのに、いったいどう考えたらよいのでしょうか、という質問です。

 

ここでは、念仏申すという行為を通して感じるはずの「躍り上がるような喜び」、カウンセリングでいうところの「身体感覚」が問題になっています。唯円房の実感としてはそれは「おろそか」(粗略・不十分)にしか感じられないというのですが、皆さんのお念仏はいかがですか?念仏のいわれも聞き、理屈も分かっているつもりだけれど、実感のところでしっくり来ないということはないでしょうか。

 

浄土真宗は機( ≒人間)を問題にしてはいけないと乱暴に切って捨てる方もいらっしゃいますが、この第九条は、念仏申す者の実感が中心テーマになっていて、それに対する親鸞さまの丁寧な応答が印象的です。

 

さて、この「感じ」について、臨床心理学者ユージン・ジェンドリン(1926-)は、「〈感じ〉は未だ言葉にならないようないろいろな意味を含んでいる」といいます。私たちが漠然と感じている身体的な「感じ」は、実は大切な意味を含んでいて、それが語ろうとしている意味にうまく気づいてゆくと、私たちは今よりも深く豊かに変わってゆくことができるといいます。 

 

たとえば、少し心を静かにして、私の身体に注意を向けてみると、私は胃に少し重く若干の痛みを感じていることに気がつきます。今まで原稿を書くのに必死で気づいていなかったその痛みに対して、そっと見守りながらともにいると、痛みが伝えてくれます。「もう押しつぶされそう。『宝章』もうまく書けないし、それどころかもう五月なのに四月の仕事も終わっていない、どうしよう。」と。注意を身体に向けるまで、私は原稿に集中していたので、自分が胃が痛くなるほどストレスを感じていることに気がついていませんでした。「胃の痛み」という身体的「感じ」は、今まで気づいていなかった私、押しつぶされそうになって追い詰められている私がいることを教えてくれます。

 

 私たちはこのような「感じ」にいつもうまく気づけるわけではありません。忙しい時、頭に来ている時、失敗したことを繰り返し悔やんでしまう時、等々、部分的な体験を自分と同一視している場合です(同一化)。また暴力をふるわれたりして受けた痛みや恐怖、不安など心の傷(トラウマ)がある時は、人は心に蓋をしてしまい、感じることを拒絶してしまいます(解離)。

 

親鸞さまは、

「親鸞もこの不審ありつるに(私親鸞も唯円房と同じ不審がありましたが)唯円房おなじこころにてありけり(唯円房も同じお心だったのですね)」

と、同じく「おろそか(不十分)」に感じた経験があったことを明かされ、それに蓋をしたりせず、「よくよく案ずれば」と応答されています。

 

親鸞さまのこのような態度は、フォーカシング指向心理療法のいうプレゼンスにあたるのだと思います。プレゼンスとは「存在の状態」を意味し、「〈感じ〉を見守りながらともにいること」「〈感じ〉が変化するプロセスに対して促進的に存在していること」または「何ものにも左右されない俯瞰的な見方」とも説明されています。

 

親鸞さまは、その「感じ」は、自分の中にある煩悩がそうさせているのだと見てゆかれます。

「よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは(当然喜ぶはずの心を抑えて喜ばせないのは)、煩悩の所為なり(煩悩のせいである)。」

「久遠劫よりいままで(永遠の昔から現在まで)流転せる(迷い続けている)苦悩の旧里はすてがたく(住み慣れたこの世は悩み苦しみばかりなのに捨てがたく)、いまだ生れざる安養浄土は(まだ生まれたことのない浄土は安らかな世界であっても)こひしからず候ふこと(恋しいとは思えないことは)、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ(本当によくよく煩悩が激しいからでしょう)。」

と、苦しみを握りしめ安らかな世界を願うことを阻害する心、そういう心が自分の中に激しく燃えていることに気づいてゆかれます。唯円房は、「おろそか」な感じで止まってしまいましたが、親鸞さまはそれを煩悩だと見てゆかれました。そう見ることを可能にするプレゼンス(本願まこと)に親鸞さまが立っておられたからでしょう。

 

そして、

「しかるに仏かねてしろしめして(ところが、仏はそのことをあらかじめご存知で)煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば(煩悩を全て持った凡夫のためとお示しになっているので)、他力の悲願(阿弥陀仏の本願)はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて(仏の名を聞いたぐらいでは喜ばない私たちのためであったんだなあと分かって)、いよいよたのもしくおぼゆるなり(ますます頼もしく思えるのです)。」

と思いは進み、

「よろこぶべきことをよろこばぬにて(当然喜ぶべきことを喜ばないことによって)、いよいよ往生は一定(いよいよ往生は決定している)」

という結論に至ります。

 

親鸞さまは、念仏申す実践を通して感じつつある身体感覚に上手く気づき、その感じに蓋をせず静かに見守ることを通して、それまで気づかなかった自身の煩悩と出遇い、それをもとにいよいよ確かに本願に出遇ってゆかれたわけです。「おろそか」な感じは「おろそか」なまま「頼もしい」「往生は一定」へと変化しました。

 

【参考文献】

ユージン・T・ジェンドリン『フォーカシング』

アン・ワイザー・コーネル『フォーカシングニューマニュアル』

土江正司『こころの天気を感じてごらん』

 

(いわさきちねい 広島仏教学院講師・西教寺住職)