真実のお領解 

(『宝章』昭和15年1月号より転載)

 

御当流の御安心は、もとより凡夫の智慧分別をすてて、ただ如来の願力に打ちまかせるのであるから、学問にはさらに用事はない、むしろ学問はお領解の邪魔になります。後生の一大事を定めていただく安心の一途は、何にも知らぬ愚痴の凡夫になって、仰せのとおり真受(まう)けにさせてもらわねば決まるものではありません。

 

しかしそれなら学問は無用かといえば、決して無用ではありません。すなわち仏教の道理を大体心得させていただいて、なるほど仏の言葉は真実であることを納得させていただくことは最も必要なことで、その点になれば、学問は広いほど深いほどがよい。そこは仏教の信仰が他の宗教と違ったところで、道理のわからぬものを無理に信ぜよというのが仏教ではありません。道理学問の上からも、なるほどこれは真理であるという会得をした上に、初めて如来様のお慈悲も信ぜられるのであります。そこになればよくよく道理を聞かせていただかねばならぬのであります。しかしながら学問の道理は深いものでどこまで行っても切りがありません。仏教はここから先はわからぬというような行き詰まりのある宗教ではないから、研究をすれば疑問はすべて解決しますが、一つ解ればまた先に疑問が起こるから学問研究と言うものは生涯尽きるものではありません。それ故に道理は道理としても御安心の一途になれば理屈を捨てて如来の願力におまかせさせていただくことが大切であります。

 

御開山さまが、一乗海ということをお釈しなされてありますが、弥陀の本願は法界々(ほうかいがい)に唯一つ、これより勝れた法はない、これより易い法はない、これより外に凡夫が仏になる法はないということで、非常に広大なことを仰せなされたものであります。

 

このお心持ちをしばらく今日の世界で味わわせていただいてみれば、世界に宗教というものは多いが、「九十五種世をけがす、唯仏一道(ゆいぶついちどう)きよくます」で道理にかなわぬ宗教はいずれも真理にかなわぬ外道であると申さねばなりません。外 (ほか)の宗教ばかりでない仏教門内でも近頃はおみくじを引いたり、鬼神や獣(けだもの)を祭ったり、ホーロクに灸をすえたり全く外道でありましょう。御開山の「外儀は仏教のすがたにて内心外道を帰敬せり」とおっしゃるのが、正しく事実になってきているのであります。西洋の宗教も造物主の思想で、仏教から見れば迷信に堕するのであります。近来日本に流行する新しい宗教も大抵似たりよったりのもので、すべて迷信というほかはありません。こういう宗教が持てはやされて、広まっている世の中に、我々は幸福にも尊い仏教に遇わせていただき、これを信仰させていただくということは、まことにありがたいことであります。それにつけても御自分御自分に急いで真実のお領解をいただかれることが肝要であります。それについて足利和上のいつもいつも仰せられたことがあります。今日になってみれば、我も人も凡夫同士の寄り合いで、この人を頼りに後生の覚悟を決めるというような人はない。そこになれば唯一つ、お聖教が後生の導きをなさって下さるのである。お聖教がそのまま生きた仏さまである。このお聖教の御導きよって初めて後生の覚悟が定まるのであると仰せられましたが、よくよく玩味(がんみ)すべきお言葉であります。

 

(たかまつごほう 真宗学寮初代学頭・本願寺派勧学)