願力の白道即信心
山本正念編『髙松和上御示談御法話集』より転載
御開山は当流のおいわれを法の方と機の方の二つにちぢめてお明しになっています。それを行信といわれる。その真実の行とは浄土真宗に於ける往生極楽の行業であります。
真宗の大行は諸仏がほめたたえる南無阿弥陀仏の御名を直ちに大行ということもあれば、私たちが称えさせて頂く称名を大行ということもあります。この真実の大行は私たちが称える称名と不二一体であるとあらわされてあります。即ち行者の称名一声が機にとどまらず法体の名号にかえるのであります。
また信心も、南無阿弥陀仏の妙行を真実報土の真因と信ぜられた信心であるから法の外はない。
抑々(そもそも)御当流の御法義は、法の御手本(おてもと)では南無阿弥陀仏の一法(いっぽう)、衆生の手本(てもと)では唯(ただ) 御信心一つで、其の他には何物もありません。天にあるが天上の月、池にあるが池中の月、天と地と暫く分ちてあれでも、その物体(もったい)は一つであります。御和讃にも曇鸞大師の御意(おこころ)に依らせられて「安楽仏国ニイタルニハ、無上宝珠ノ名号ト真実信心ヒトツニテ、無別道故(むべつどうこ)トトキタモウ」と仰せられて、如来様の御手許の御名号そのままが私の手本の御信心と成ってくださるのであるから、唯一つで二つはないのであります。善導大師が二河の御譬えをなされて、貪欲(とんよく)の水の河と瞋恚(しんに)の火の河の中間に、一つの白い道があると仰せられてありますが、この白い道というのが、法の手本にもどせば南無阿弥陀仏の一法(いっぽう)、衆生が戴いた上では御信心のひとみちであります。
されば南無阿弥陀仏とは、南無というは帰命なりと仰せられて、帰命とは如来様のたすけすくうの御勅命(おちょくめい)に、帰順したてまつることで、たすけすくうの御勅命が、先手(せんて)をうちたて御喚びなされていただくゆえに衆生の手本では唯御たすけ候えと御まかせするばかりであります。阿弥陀仏の四文字は、そのたのむ衆生を光明の中に摂めとりて捨て給わぬ御すがたであります。
依ってこの御名号には、二重の御意があります。二重とは一つには能帰所帰(のうきしょき)の御いわれ、二つには能摂所摂(のうしょうしょしょう)の御いわれであります。一に能帰所帰の御いわれとは、南無の二字は能帰で、衆生が阿弥陀如来に帰順させていただく方(かた)であります。阿弥陀仏は所帰で衆生に帰順されてくださるる方であります。すなわち南無は衆生のまかす方 、阿弥陀仏は衆生の往生を御うけあいくださる方であります。二に能摂所摂のいわれとは、阿弥陀仏は衆生を光明の中に摂め取って捨てさせられぬ方、南無はその阿弥陀様の光明の中に摂め取られる方であります。喩えば母の膝の上の幼児は母をたよりにする方、その母はその幼児の為にたよられる方、また母は幼児を抱きて護る方、幼児は母のために抱かれ護られる方、今またその御意と同じことであります。
そこで善導大師は、観無量寿経の「念仏衆生摂不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」の御文を釈して親縁近縁増上縁(しんえんごんえんぞうじょうえん)と仰せられて、衆生と仏様とは切るに切られぬ親子の縁であるので親縁(しんえん)と仰せられ、いつも衆生を抱き取りて離れ給わぬ故、近縁(ごんえん)と仰せられ、終(つい)に浄土へ迎えとって下さる故、増上縁(ぞうじょうえん)と仰せられました。
これを蓮如上人は、いつも機法一体の南無阿弥陀仏と仰せられるのであります。機とは衆生のてまえで信心であります。法とは仏様の方で摂取の御力(おんちから)であります。この機と法とを一体に御成就されたのが、南無阿弥陀仏の御名号であります。
かようないわれがありますゆえ、御当流の御安心は親様が光明の中に摂め取って、必ずたすけるの仰せゆえその願力不思議に信順し、御すがり申すばかりであります。その信の一念に、阿弥陀様は光明の中に摂めいれて御捨てなされぬ故、必ず真実の浄土へ往生することが出来るのであります。依よって御文(おふみ)にも「サレバ他力ノ信心ヲウルトイウモ、コレシカシナガラ南無阿弥陀仏ノ六字ノココロナリ」と仰せられ、一切の聖教と云うも、ただこの六字を信ぜしめんがためと仰おおせられてあります。
(真宗学寮初代学頭・本願寺派勧学)
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