浄土真宗における本尊について

 

 本尊(ほんぞん)とは根本主尊(こんぽんしゅそん)の意であり、超歴史を主張する真言密教では無相の本尊・有相の本尊の理解があり、本尊の用語は真言からとも云われている。衆生救済法の用それ自身を礼拝対象の根本主尊として仰信(ごうしん)し尊崇(そんすう)するのが浄土真宗の本尊であるから浄土真宗即超歴史なのである。

 『大経』証信序・発起序において釈尊の地位を顕わされ、超歴史の阿弥陀如来(法そのもの の独用)より融ぜられた融本(ゆうほん)の釈尊なることが明らかとなり、この融本の釈尊が『観経』の巧説を施され、下々品の凡夫が阿弥陀如来によって救済されることが明かされている。よって浄土真宗の本尊を『観経』第七華座観の住立空中尊(立撮即行(りっさつそくぎょう)の立像(りつぞう))を礼拝対象とすることこそ超歴史なのである。『阿弥陀経』は二尊一致によって諸佛が弥陀救済法を証誠されるのである。

これも超歴史の証明である。

 

 浄土真宗における本尊には、方便法身尊号の名号と方便法身尊形の絵像・木像とがあるが、

宗祖が書き残されたお聖教のなかには「本尊」という用語もなく、本尊論の展開もされていないが、本尊として依用する為に書かれた宗祖直筆の名号本尊がのこされており、絵像・木像についても礼拝されたという伝承があるほどである。

 日渓法霖(にっけいほうりん)和上は『真宗秘要鈔』に

 

華座観の住立空中の像は大悲抜苦(ばっく)の相なれば之を用ひ給ふか、然るに、この佛、定善の文中にあれば化身なるべし、ことさらに立ちて坐し給はざるゆゑに、しかるにその立ち給ふわけは、善導自ら釈し給ふ、其の報身なるは韋提念佛の機より見給ふゆゑなり、自力定善の機より見れば化身なるべし、韋提は念佛の機なり、故に報身を見る、(乃至)如来空中に住立するは即是其行の行体を示す、韋提接足作礼して無生を得るは南無帰命の心にあらずや、すでに帰命の心を以て住立空中の像は無碍光如来の体なり、脇士を立てざるは一法句の相を示す、蓋し是れ一向専念のものの所見の佛なることをしめす。(『真宗叢書』第二巻、七六八頁)

 

と『観経』華座観住立空中尊によって立像を本尊とすべきことを終南大師の六字釈と合せて述べられている。芿園大瀛和上は『浄土真宗金剛錍』に

 

本尊義を観ずとは、『経』に言く「無量寿佛威神功徳不可思議」と、(乃至)聞其名号信心

歓喜を以て、本願の宗極入法の至要とするが故なり、是を以て蓮宗主専ら名号を書して門徒に与えて本尊となさしめ給ふ、是れ聞信を除いて別に要路なきことを示さんが為なり、此は是れ一家相承の実義なり、(『真宗叢書』第二巻、七七一頁)

 

と「威神功徳不可思議」なるからこそ、超歴史の第十七願成就の如来(名号)を本尊とし聞信すべき以外に要ようろ 路は全くなく、他は自力に堕 だ

するということを述べられ、『横超直道金剛錍(おうちょうじきどうこんごうへい)』中巻五十三丁右には

 

一に名號を本尊としたまへることは、蓋し一宗の玄旨を表顕せんが爲なり。夫れ全体施名

は願力廻向の喉襟(こうきん)、聞信直入の機要、凡夫境界に在て本願成就の真容を眼見すべきに非ず、之が為に全体施名し、その御かたちを名義にあらはして、衆生をして聞見せしめたまふ、次に、形像本尊は、礼拝瞻仰(らいはいせんごう)の爲故なり。此は特に信後の行儀門なり、故に『改邪鈔』に云く「いまの眞宗においては、もつぱら自力をすてて他力に歸するを(下に帰命と云うは是也としるべし)もつて宗の極致とするうへに(うへにの言は次の礼拝等に応ず、之を思え)、三業のなかには口業をもつて(上文云師傳口業)他力のむねをのぶるとき(善智識のことばのしたにと云に同)、意業の憶念歸命の一念(聞信一念外儀に渉らず)おこれば(上来は能化の口業所化の意業に約して重ねて上の他力に帰する極致を詳らかにし以て身業礼拝の由て来る所の本を示す)、身業礼拝のために、渇仰のあまり、瞻仰のために(分明に是れ信後の恭敬)絵像・木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画圖す」と。此は是れ、今家、形像(ぎょうぞう)本尊の縁由なり、明らかに信後の報恩恭敬(ほうおんくぎょう)の為と判じたまへり、

 

 と自力の眼見ではなく他力が聞見せしめたまふ独用たる名号本尊・形像本尊の真意を述べられ、信後の行儀門も法の独用(どくゆう)たる報恩恭敬であることを明かされ、亡くなる前に江戸から義母に送られた『かたみの御文』には

 

『御文章』に曰く、「かの仁躰においてはやく御影前(ごえいぜん)にひざまづいて、迴心懺悔(えしんさんげ)の心をおこして、本願の正意に歸入して」とあり、又曰く「この故に南無の二字は、衆生の彌陀如来に向ひたてまつりて、後生たすけたまへとまふす心なるべし」とあり。然れども彌陀をたのむとて、畫像木像にむかひてたのむにもあらず、口にたすけたまへといふにもあらず、心のうちに御助け候へと凡夫の念をおこすにもあらず、南无阿弥陀佛は本願の御呼聲なれば、たすけてやるぞと呼びたまへるその御呼声をきいて、御助けにあづかる事よと信じて、後生の一大事をば弥陀にまかせまいらせて、自力の計(はから)い なきをたのむとはいふなり。(乃至)

又さきだてる親兄弟の法事をいとなみたもふとも、先だてるものへ手向まいらする心あら

ば、これみな自力なり。親兄弟の命日にあたりて、法事を營みたまふときは、忌日命日を縁として、佛に報謝のために御供養まうすと思ひたまふべし。たとひ佛壇の掃除をすると

も花をたつるとも香をたくとも、みな報恩とおもふべし。信の上は何事も報謝と思ひたまふべし。我身だに佛にならば自由自在に済度なるべし。人のためとおぼしめさずとも、ま

づ我身の信心さだまりぬるやいなやと思召して、自身の安心決定あるべきなり。いよいよ往生うたがひなくおぼしめす上は、報恩の稱名おこたりなく御たしなみ肝要なり。

 

と自力・他力を闡明にされながら本尊と安心との関係が具体的に述べられている。現在の浄土真宗の本尊は弥陀一佛に局りて脇士は無く座像でなく立像である。図示すると

となる。宗祖親鸞聖人は

 

久遠実成阿弥陀佛 五濁の凡愚をあはれみて

釈迦牟尼佛としめしてぞ 迦耶城には応現する

 

と讃詠されている。

合掌

 

(つがわふしょう 真宗学寮教授・正圓寺住職)