『心を弘誓の仏地に樹て』 

 

中国の善導大師は『往生礼讃』前序に、如来より賜りたる他力の信心を、「安心(あんじん)」と表わされました。それからその内容を、より深く味わえるようになったのです。

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先ず安心(あんじん)の「安」を、置くべき場所に安置する意とし「安置心(あんちしん)」と味わいます。何処に置くのかと言えば、阿弥陀仏のお慈悲の大地に、私の心を置いて安心するのです。これが他力の信心の有り難い所です。

 浄土真宗は、「信ずる」とは「聞く事」で、宗祖が『一念多念証文』に(註釈版六七八頁)

「また聞くといふは、信心をあらわすみのりなり」

と言われているように、「まかせよ、必ず救う」のよび声を、素直に聞くのです。もう私の側に目を向け、「これで大丈夫。まちがいなし」等と安心するのは、全く無意味の事になると気づかされます。

 

讃岐の妙好人・庄松さんが、本山に参詣され、帰敬式を受けられた時です。

 御門主の法衣の袖を引っぱり、「アニキ、覚悟は良いか」と言われた有名な話が有ります。他の同行はびっくりしました。

 式が済んだ後、時の興正寺の御門主・本寂上人が「いま我が法衣を引っぱった同行を此処へ呼べ」と命じられました。庄松は平気な顔で御前に出向いたそうです。 御門主は

「我が法衣を引っぱったのは、汝であったか」

「へエ、俺であった」

「何と思う心から引っぱった」

「赤い衣を着ていても、赤い衣では地獄はのがれる事はならぬで、後生の覚悟は良いかと思って言うた」

「そうか。私を尊敬する者は沢山いるが、後生の意見をして くれたのは、汝一人じゃ。よく意見をしてくれた。所で、汝は信心を頂いたか」

「へエ頂きました」

「その心持ちを一言で申せ」

「なんともない」

「それで後生の覚悟は良いのか」

「それは阿弥陀様に聞いたら早く解る。我の仕事じゃないし。我に聞いたとて解るものか」

 御門主は非常に満足され、「弥陀を憑たの むと言うも、それより外は無い」と言われたそうです。[庄松同行ありのままの記]より。

 

宗祖が『本典』後跋(ごばつ)に(註釈版四七三頁)

「心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た) て、念(おも)いを難思の法海に流す」

と述べておられますが、凡夫の心の上に落ち着き安心するのではありません。

  「まかせよ」の弥陀の喚び声を聞き、その弘誓の仏地の上に私の心を置き、安心するのです。私の役にも立たない念い・計らいを難思の法海に流して、全く顧みないのです。

 所が私の側に目を向けて、其処に安心しようとする気持ちが中々捨て切れません。

 親鸞聖人が、浄信房の質問に答えられた『御消息』に(註釈版七八二頁) 「貴方のお領解は立 派で間違いは有りませんが、しかしこれも計らいになりますよ」と注意されます。

「かくめでたくは仰(おう)せ候へどもこれみなわたしの御はからひになりぬとおぼえ候ふ。ただ不思議と信ぜさせたまひ候ひぬるうえは、わづらはしきはからひあるべからず候ふ」と。

 意味は「私が、貴方の領解は間違い無い」と言えば、恐らく貴方は「私は親鸞聖人から、間違いないと言ってもらったから、もう大丈夫だ、と安心するに違いない。これは計らいです。私が貴方を救うのではありません。ただ仏智の不思議と信じた上はわずらはしい計らいがあってはなりません」との誡(いまし)めです。

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 そこから「安 心(あんじん)」とは、「安易心(あんいしん)」と味わえます。

 蓮如上人が『御文章』に(第二帖・七)

「あら、やうもいらぬとりやすの安 あんじん 心や。されば安心といふ二字をば[やすきこころ]とよめるはこのこころなり」

と述べておられます。

 「やうもいらぬ」とは、私の計らいは、全く要らない安易な信心との意味です。安心とはまさに「やすき心」で、ただ如来の本願力にお任せするのみです。

 此処で明確にしておかねばならぬ事は、浄土真宗で、自力・他力の語を使用する場合は、悟りへの道に於いてのみ使用する事です。

  「他力とは如来の本願力なり」と示されるように、私の悟りの為に、阿弥陀仏が何もかも仕上げて、「計らいを捨てて、まかせよ」と呼んで下さるのが他力の道です。自力とは私が悟りに向かって、一歩ずつ進む道を言います。

 ですから「安易」とは、私の力は、悟りの為には、全く役に立たない事を意味します。その代り弥陀の本願力の独りばたらきが、裏付けてある事を忘れてはなりません。「他力本願は横着者のする事だ」とは意味が全く違うのです。「お恥ずかしいこの私を。ようこそ、ようこそ」の心です。

 そこには自分を振り返る心が生まれ、自然と「お蔭さま」の感謝の心が起こり、「安らぎ」が恵まれて来ます。

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 「安心」には、反省と感謝の心が有るので、次に「安穏心(あんのんしん)」と味わえます。

 私は、永遠に迷い続ける凡夫で有りながら、大悲の願船に乗せられて、必ず仏と成らせて頂く身に定められるのです。色々な苦悩も、頂いた「南無阿弥陀仏」のお力で受け止めて、それを乗り越えて行くのです。

 親鸞聖人は、この世の利益を「正定聚に入るの益」に集約されますが、それは仲間と共に逞(たくま)しく、また「仏になる尊い人間だ」と言う高き誇(ほこ)りを持って、生かされる世界です。

 

(たけた きみまる 広島仏教学院講師・順正寺前住職)