転教口称 〜極悪のいのちを転ずるもの〜

 

 『観経』下品 には、臨終の悪人が善知識の教えによって念仏に帰依するありさまが説かれています。

 

 まず下品上生では、大乗の教えを謗そしることこそしなかったものの、さまざまな罪を犯して天地に慚 じることのなかった悪人に、臨終に善知識が大乗の経典の題名を教え、さらに「なもあみだぶつ」とひと声称えさせます。経典の名前を聞くことにより千劫の間生死に輪廻する罪が消え、ひと声の称名によって五十億劫の罪が消えて、極楽に往生したのです。

 

 次に下品中生では、破戒の僧侶の往生を説いています。出家教団の共有の財産をわが物にし、衣食の贅沢をほしいままにし、名誉や金銭のために説法してきた不浄説法の僧侶が、命終わろうとする時に、地獄の猛火が一時に襲ってきます。善知識が阿弥陀仏の功徳の優れていることを讃 めたたえると、八十億劫の罪が消え、地獄の猛火は涼しい風と変わり、極楽に往生することができました。

 

 最後に下品下生は、十悪・五逆の恐ろしい罪を犯してきた臨終の悪人に、善知識が現れて念仏を勧めます。しかしこの人は苦しみに逼められて念仏することができません。善知識はさらに、阿弥陀仏を心に思い浮かべることができなければ、ただ口にその名前を称えなさいと勧めます。その勧めに励まされて、十声「なもあみだぶつ」と称えました。ひと声ひと声において八十億劫の罪が消え、極楽に往生したのでした。

 

 このような『観経』の説相を、善導大師は『観経疏』散善義の下品上生釈には「転教称念」と言い、下品下生釈には「転教口称」と解釈しています。(『真聖全』一―五五二、五五五頁)

 

 つまり下品上生釈には「智者教を転じて、弥陀の号を称念せしむることを明かす」と述べています。これは善知識が、諸経の名前を讃嘆することから、弥陀の名号を称えることに教えを転じたと見たものです。

 

 また善導大師は、下品中生に説かれているような、十力威徳や、光明神力や、戒・定慧・解脱・解脱智見の五分法身という阿弥陀仏の徳は、名号の功徳であると見ています。罪人が極楽に往生できたのは、名号の義を聞いて滅罪したからでした。下品中生釈には、「善人、ために弥陀の功徳を説くことを明かす。五には罪人すでに弥陀の名号を聞きて、すなはち罪を除くこと多劫なることを明かす」と述べています。

 

 さらに下品下生釈には「まさしく法を聞き仏を念じて、現益を蒙ることを得ることを明かす」十項の中に、「三には臨終に善知識に遇ふことを明かす。四には善人安慰して教へて仏を念ぜしむることを明かす。五には罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なきことを明かす。六には善友苦しみて失念すと知りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす」と釈しています。

 

 臨終の悪人が「阿弥陀仏の名号を念ずることができません」と訴えたのは、下品中生のように名号の功徳を心に念ずることだと思ったからでした。それに対して善知識は、「ただ弥陀の名号を口に称えなさい」と勧めたのです。

 

 つまり教えを転じるとは、善知識が自ら前に説いた教えを自己否定することによって、極悪のいのちに一層深く寄り添おうとする、大悲のいとなみだったのです。このように善導大師が『観経』の肝要を称名一行に集約して、凡夫入報の仏意を鮮明にされたものこそ、「転教口称」の釈だったのです。

 

 親鸞聖人は、『唯信鈔文意』の最後に『観経』下々品を解釈して、次のように述べています。

 

(『真聖全』二ー六三七頁)

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を称念したてまつらずは、ただくちに南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへるみのりなり。これは口称を本願とちかひたまへるをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのたまへる、このこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

 

 「病いの苦しみに閉じられて」とは、臨終には今まで歩んできた人生の全てが走馬燈のように蘇り、後悔の念に苛まれるといいます。また境界愛・自体愛・当生愛の三愛が起こります。愛しい家族と別れたくない、この身から離れたくないと、最も愛着していたものが身を責めるのです。それが次の迷いの境界を牽く原因ともなります。

 

 「心に弥陀を称念することができない」とは、穏やかな心で阿弥陀仏を念うことも、その名前すら称えることができないような、苦悩の姿です。“念仏を称えなければ救われない”という強迫観念によって、念仏を称えることもできないほど追い詰められていたのです。懸命に阿弥陀仏を掴つかもうとして、掴めないと嘆いていました。

 

 このような愛執渦巻く暗闇のただ中に響き渡っているひかりの言葉こそ、念仏でした。南無阿弥陀仏は、「どんな時にも側にいるから、一緒に歩んでゆこう」という励ましの声であり、「辛いときには無理をせず、ゆっくりいのちの道をかみしめよう」という安らぎの響きです。ここにひとり一人がいのちの尊厳を取り戻して歩んでゆく真実の道がすでに開かれていたのです。 「ただ口に南無阿弥陀仏と称えよ」とは、罪悪深重のいのちに、あなたがあなたらしく誇りを持って歩んでゆける豊かな人生がここにあるという宣言でした。不安や恐れを抱きながら彷徨う人生はすでに終わったのです。念仏は、如来に包まれ、護られ、導かれて歩むただひとすじの道です。それが浄土から開かれた無碍の一道なのです。そこでは今まで犯してきた罪は、そのまま大切ないのちの場所に変えられます。深い煩悩のつながりを通して、共に歩む道が明らかになるのです。

 

 ところで親鸞聖人は、この下々品の解釈のなかに、下中品の不浄説法の者も入れておられます。これはご自身を下々品に位置づけたことを意味しています。長い仏教の歴史のなかで、自身を下々品に置いて底下から仏道を見直したのは、親鸞聖人が最初です。ここに、いかなる者も決して見捨てられることのない本願力廻向の仏道が明らかにされました。それが極悪の悪人に輝く、大悲一乗のはたらきなのです。

 

 極重悪人唯称仏

 

 我亦在彼摂取中

 

 煩悩障眼雖不見

 

 大悲無倦常照我

 

(極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふ。)ナモアミダブツ

 

(おかもと ほうじ 真宗学寮教授・本願寺派布教使)