『「他力」の誤用におもうこと』

 

「他力」は親鸞聖人の重要な教えの一つです。にもかかわらず、もっとも誤用される言葉でもあります。世間では「他人まかせ」「タナからボタもち」の意味に使われたり、以前ある政治家が「外国の軍隊にまかせる他力本願のような日本ではダメだ」といった発言をしたり、オリンパス社が新聞広告に「他力本願から抜け出そう」というキャッチコピーを掲載し、真宗教団から抗議を受けました。そのような誤解を受ける下地には、辞書にも他力の意味を「転じて、もっぱら他人の力をあてにすること」 ( 『広辞苑』)

と載るくらい、誤用が一般化していることがあります。

 

そこで影響力の大きい誤用に対しては真宗側から抗議文を出したり、一般世間に向けては「他力」の正しい意味をアピールしたり、いろいろ手立てを講じますが、あまり効果はないようです。それは、その釈明に世間の人々を納得させるには不充分なところがあるからではないでしょうか。

 

たとえば西本願寺から出ている公式サイト『他力本願ネット』では、「親鸞聖人は『教行信証』に〝他力といふは如来の本願力なり〟と明示しておられます。だから他力とは、他人の力ではなく、仏の力、阿弥陀仏の慈悲のはたらきをいうのです。」と、他力とは仏の力をさし、それ以外は他力とは言わないことを説明しています。

 

しかし誤用した人も、「他力本願」の本当の意味は仏さまの力だと、多少なりとも承知して

おり、親鸞聖人が「他人まかせ」や「タナボタ」を教えたり、浄土真宗がそれをすすめているとは考えてはいません。承知の上で「仏さまにおまかせするような仕方で、他人にまかせる」との意味で「他力本願」を使うのです。

 

だから誤解を解こうとするならば、「他力とは他人の力でなく阿弥陀仏のはたらき」と説明するだけでなく、「阿弥陀如来のはたらきにおまかせする」という「まかす」ということが、世間でいう「他人まかせ」の「まかせる」仕方と同じなのか違うのか、違うならばどこが違うのか、ここをはっきりさせることが大事だとおもいます。

 

そこで親鸞聖人はどうして「他力」ということを重視にされたのかを見てみましょう。「他力」を定義された「他力といふは如来の本願力なり」のご文があるは、「行巻」で真実の行とは何かを明かされたところです。法然門下において、同じようにお念仏を申しながらも、真実のお念仏者と、いまだそこまでに至っていない人のあることを親鸞聖人は問題にされます。その違いを「他力の念仏」「自力の念仏」として明らかにされ、真実の念仏とは「他力の念仏」であるといわれるのです。なぜ「他力」といわれるのか。真実のお念仏は、たしかにその人がお念仏を申しているのだが、その元のところをたずねると、「如来の本願カ」がそう呼ばせているのだと親鸞聖人は領解されます。

 

私はご門徒の家にお参りしてこんな経験をすることがあります。最近は長男より娘夫婦と同居されることが多く、さてこの人はお嫁さんか、実の娘かと迷うことがあります。そんなときは親を呼ぶ声のひびきでだいたいの見当がつきます。お嫁さんの呼ぶ「おかあさん(お義母さん)」は、どれほど丁重に呼んでも、他人と区別するための記号、粗末にしていないことを見せるための手段として建て前で呼んでいる着飾ったひびきがあります。しかし実の娘の呼ぶ「おかあさん(お実母さん」)はどれほど乱暴な呼び方であっても、親と心が通じあったひびきを感じます。それは赤ちゃんの時から何べんも何べんも「おかあさん」と呼んだり聞かされたりして、親の愛情を受け取ってきました。だから娘の口からた出た「おかあさん」であっても、その元にある親の愛情がそう呼ばせているのでしょう。

 

いまこの両者の親の呼び方でいうならば、自力の念仏とは、いわばお嫁さんの呼ぶ「お義母さん」です。親鸞聖人はこの自力の念仏を要門と真門に分け、真門の念仏について、

「本願の嘉号を以って己が善根とする」(「化巻」)

「善本徳本の尊号をおのが善根とす。みづから浄土に廻向せしむ」(『三経往生文類』)

と厳しく批判されています。どれほど熱心に身を入れてお念仏申していても、結局おのれの利益のためにお念仏を利用しているにすぎないとおっしゃるのです。親でも仏さまでさえも、利用できるものなら何でも利用してやろうという心根を私たちは本性としてもっていることを深く思います。僧侶としての私の日常を思うとき、結局私は如来さまや親鸞さまを生活の糧として利用しているんだなぁと思うことがあります。日頃はそんなことなどは思ったこともありません。仏法興隆のため日夜奮闘していると思い込んでいるのです。

「自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐなり」(『歎異抄』)

 

「他力」は「自力のこころをひるがえす」ことを抜きにしては成立しません。「ひるがえす」とは180度ひっくり返るということです。何よりもわが身が可愛いという自己中心の自我(自力のこころ)が問題になり、「自力のこころ」を生命として生きてきた自己が崩壊し、仏の生命に生きる新しい人格が生成するこを「他力」といわれるのです。「自力のこころをひるがえす」ことなしに「如来さまにおまかせする」といっても、それは力あるものへの依存心「寄らば大樹の陰」で、「自力のこころ」を一歩も出ていません。これでは「他人まかせ」を「他力本願」と誤用されても致し方ないことです。

 

( ちくだ てつゆう 広島仏教学院講師・法光寺住職)