清浄功徳

(『宝章』昭和十五年十月号より転載)

 

阿弥陀様のお浄土は、二十九種の御荘厳をもって飾り立てているのであります。その中に清浄功徳という功徳があります。清浄とは綺麗ということで、同じ綺麗でも、これはあらゆる汚れがない綺麗ということであります。人間世界で汚いといえば塵埃(ごみ)もある、芥(あくた)もある、垢もある。人間世界は汚いことは果てがない大層あるが、その汚いいよいよの元は、心のなかに汚い穢れがある、これが元であります。この心の中に穢(きたな)い三毒五欲が元となって、あらゆる世界を汚(けが)して一切が汚(きたな)くなるのである、阿弥陀如来のお浄土は微塵も煩悩の汚れがない、これを清浄功徳というのであります。

 

十方諸仏のお浄土も皆清浄であります。然るに彼のお浄土へは煩悩悪業を抱えた衆生は絶対に生まれることはできません。阿弥陀様のお浄土ばっかり煩悩だらけの汚い衆生がどんどんまいらせてもらえるのであります。なぜかなれば、煩悩だらけの衆生であるが、参るはしから清浄な汚れのないものにして下さる。この世では御信心を頂いた後とても、やはり身も心も汚れているこの汚れた身は、この世に投げて置いて、汚れた心はお浄土の門をくぐるなり清浄な功徳に変えて下さる。ちょうど川の水が海に入って、同じ塩辛い味に変わるようなもので、煩悩悪業に汚れたままお浄土へ参るなり、みな清浄の悟りに変えて下さるのである、これを清浄功徳の世界というのであります。

 

お互いに、かかる尊い御利益を得させていもらう私の幸福を思えば、決して煩悩を出すのが自慢でない、娑婆当流の間は、如来様の御冥見(ごみょうけん)に愧(は)じ入り愧じ入り、心の中に煩悩の起こるのはしょうがないが、せめてそれを眼に出さぬよう、口に出さぬよう、身体や手先に出さぬようたしなんで行かねばなりません。人間世界では、煩悩を出さぬと日暮しができぬようにと思うと、それは大変な間違いであります。三毒の煩悩が姿に出て、自分の利益(りえき)になることは少しもありません。煩悩が無(のう)ては生活して行けぬように考えては誤りであります。世間は煩悩でやって行くのでない、智慧でやって行くのである。智慧さえあれば、どんなにでも立派に世渡りは出来るのであります。さりながらこの煩悩は皆まで出さぬわけには行かぬが、心の中に起こる分は仕様がないとしても、せめてそれを口に出さぬよう、手先に出さぬよう、そこを慎んで行かねばなりません。こうして、たしなみたしなみ暮らして行けば、未来ばかりでなく、この世から立派に美しい日暮しとなるのであります。煩悩があるから出世できるのではのうて、智慧があれば、出世ができるのであります。貪欲や愚痴の煩悩はちょっとは良いようであるが、結局は身を亡ぼす元となるのであります。智慧と煩悩とが、交る交る出てくるのが、人間の日暮しの実際ではありますが、煩悩を出さずに智慧だけ出せば、これほどよいことはないのである。大悲の如来様のお光明の中に住すまい 居させてもらう身となれば、なるべく煩悩を口に出さぬよう、手先に出さぬように。辛抱は永いことはありません。たった今お浄土へ参らせてもらって、清浄功徳に契かなわせて頂くのであります。

 

(たかまつごほう真宗学寮初代学頭・本願寺派勧学)