六字釈と大無量寿経

『宝章』昭和二十七年六月号より転載

 

大経は真宗根本の経典でありますが、南無阿弥陀仏の六字のお名号が一ヶ所も見当たりません。これはどういう理由でありましょうか。名号によって救われると聞きますのに、この主なお名号がないのは不審なこととお尋ねなさるお方が、段々あります。

 

これについて、仏のお名号は普通一般にいえば、あるいは大日如来、あるいは薬師如来と称となえてあるがごとく、阿弥陀様のお名号もやはり阿弥陀如来と申し上げるのであります。よって三部経の題目に「仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経」とあって、いずれもみな阿弥陀仏の法門を説きたまえる経巻(きょうかん)なれば、無量寿といい阿弥陀仏と称えてあります。六字の名号は、これは阿弥陀仏の徳号(とくごう)で、十方の諸仏では、いずれも仏の南無の二字をつけて称えますが、この二文字は行者の方からつけて唱えるので、諸仏のお名号には南無の二字をもってはおられません。阿弥陀仏のお名号には、阿弥陀仏の四字のところに、南無のいわれが成就してあります。これ機法一体の南無阿弥陀仏と申すのであります。そのゆえは、南無の機までも行者のはからいにあらず、仏よりご廻向(えこう)にあずかるのでありますから、阿弥陀仏の法のできたと同時に、南無の機までも御成就になっているのであります。よって普通に仏名(ぶつみょう)を呼ぶときは、阿弥陀仏と申し上げるのでありますが、この阿弥陀仏のお名号がすなわち南無阿弥陀仏の六字のお名号となるのであります。ゆえに、大経の経題には無量寿仏と四字名(よじな)になってありますが、大経一部の法門はすべて南無阿弥陀仏の六字の法門になっているのであります。ゆえに観経にはこのこころを顕あらわ して、六字をもって仏名となされてあります。

 

このおもむきは、善導大師のお聖教にあきらかにお示しになってあります。一口にいえば、普通一般の仏名は阿弥陀仏の四字なれば、常には阿弥陀仏と説かれてありますが、その法義からいえば、阿弥陀仏のお名号がすなわち南無阿弥陀仏のお名号であります。はじめから南無阿弥陀仏とおおせられては、かえって阿弥陀仏のほかに南無のなきいわれが顕われません。阿弥陀仏と申し上げたところに、南無のいわれがそなわればこそ、機法一体のいわれが明らかになるのであります。

 

かような深きありがたきおいわれがあるのであるから、よくよくこの辺をご注意なされて、御法義をお味わいなさることが肝要であります。

 

(真宗学寮初代学頭・本願寺派勧学)