『摩訶迦葉尊者』

 

 あるとき仏弟子の摩訶迦葉(まかかしょう)は王舎城の耆闍崛山(ぎしゃくっせん)にいた。そこに阿難が訪ねてきた。聞くと阿難は弟子を連れて南山に遊行していたが、素行のよくない年少の比丘三十人が修行をやめて還俗してしまったという。迦葉は阿難に「道理も分からない弟子たちを遊行に連れ出したりして、君は節度を知らない子供だ」と非難した。阿難は「白髪交じりの私を子供と言うのですか」と反論した。これを聞いていた阿難の熱烈な支持者の比丘尼が「どうして元(もと)外道にすぎないあなたが由緒ある生まれの阿難尊者を子供扱いするのか」と罵った。
そこで迦葉は次のように語った。
 私は出家して以来、釈尊以外の師を知らない。在家生活の煩わしさから道を求めて剃髪し袈裟を着けて、もし世間に真の聖者がおられたらその方に従おうと出家した。そして道半ばの頃に釈尊に出遇った。私は釈尊こそ真の聖者だと思い「世尊は私の師です。私は弟
子です」と申し上げた。釈尊は「知らぬふりをすると頭が割れてしまいますね」と仰って、修行の注意点を簡単に説いて去って行かれた。それに従って私は八日目に阿羅漢の悟りを開いた。そのときまた釈尊がやって来られたので、私は自分の衣を畳んで坐っていただいた。釈尊が「迦葉、この衣は柔らいですね」と仰ったので、私はそれを差し上げた。そして「では代わりに私が使っていた糞掃衣を受け取って下さい」と仰ったので、私はそれを拝受した。(『相応部経典』より取意)
 

 『阿弥陀経』の比丘衆に名を連ねる摩訶迦葉尊者(マハーカッサパ)は、仏弟子のリーダー としても知られ、釈尊入滅直後に行なわれた第一結集(経と律の編纂会議)の主導者でもあり
ました。尊者は、王舎城近くの裕福な婆羅門の家に生まれ、親の勧めで結婚もしましたが、夫婦ともに出家の志が強く二人して求道生活に入ります。その妻とも離れて一人で各地を遍歴する中で釈尊に巡り遇い、仏弟子となりました。釈尊よりも十才以上も年長だったようです。 
 

 その為人(ひととなり)は「頭陀行(ずだぎょう)第一」と讃えられた称号に表れています。頭陀行とは、衣食住の貪りを捨て、粗末な糞掃衣(ふんぞうえ)を纏って人里離れた静かな林に独り住み、乞食によって得た僅かな食だけで生活することです。釈尊当時では一般に称讃される求道者の生活方法でしたが、仏教ではそこまでの厳しさは求められず、仏弟子たちはもう少し緩やかな生活をしていました。しかし摩訶迦葉尊者はあえてこの頭陀行の中に身を置き、生涯そのスタイルを変えようとはしませんでした。尊者にとっては、仏教に入門する前から十二年にわたって行なってきた生活習慣であって、それを頑固に守る信念があったのです。長者の豪華な接待を断り貧者の家に赴いて僅かな食を得たり、道端に捨てられた食べ物を拾って食べて犬のようだと罵られたりしました。あくまでストイックな姿勢を貫く尊者は、冒頭に紹介したエピソードに出る奔放な阿難尊者とは対極的な、古いタイプの求道者であったようです。
 
 摩訶迦葉尊者は、生活の多くを人気のない林の中で過ごすことが多かったので、教団の中でもその存在を知らない者も多くありました。ボロボロの糞掃衣一枚を纏ったみすぼらしい行者をたまに見かけると、皆見下すように蔑んでいました。そんな尊者の一番の理解者は、ほかならぬ釈尊でした。仏弟子たちが集う中でわざわざ摩訶迦葉尊者を呼び寄せ、自分の半坐を分かたれて坐らせたといいます。これは尊者が釈尊と同等の位置にあることを示されたもので、それにより迦葉の名は衆目の知るところとなりました。
 
 釈尊は摩訶迦葉尊者を自分の後継者と見なされ、尊者もそれを自覚していたようです。冒頭の引用の中で尊者が語ったような、釈尊から糞掃衣を受けたことはそれを表わします。またそこでは尊者の帰仏の場面が述懐されますが、この入門の仕方は極めて異例で、尊者が特別な存在であったことを示します。
 
 当時、出家して仏弟子になるには、あらゆる戒律を守る「具足戒」を受けることが必要でしたが、仏教教団の進展とともにこの具足戒の受け方は変わっていきました。まだ教団ができてまもない頃は、やって来た入門希望者に釈尊が直々に出家を許可する「善来具足戒」でしたが、それが釈尊がおられない所でも仏法僧の三帰依によって入門できる「三帰具足戒」に変わり、やがて儀式作法が整えられて「白四羯磨 (びゃくしこんま)具足戒」という授戒の仕方が定着しました。勝手に仏弟子を吹聴しないよう十人の証人と必要としました。
 
 しかし摩訶迦葉尊者の帰仏は、そのいずれでもありませんでした。出会うなり「私は世尊の弟子です」と一方的に宣言し、釈尊も暗にそれを認められます。そうして修行の完成に必要なことを若干示すだけの導きで、尊者もそれに答えて八日後に独力で開悟します。おそらく釈尊は摩訶迦葉尊者の能力と開悟間近であることを見抜かれた上でご教示されたのでしょうが、このエピソードには、凡夫の私たちには計り知れないものがあります。高度な行の境地に達した者のみが理解し合える感覚によって、会話がなされているのでしょう。しかし、それだけに尊者は他の仏弟子たちには理解されないところも多くあった、孤高の存在でもあったのです。
 
 釈尊の入滅時、摩訶迦葉尊者はすでに九十歳を越えていたと思われます。尊者はそのとき経と律の結集を企画主催しますが、その動機は、教団が分裂する危機感からのようです。釈尊入滅を皆が嘆き悲しむ中で、ある老齢の仏弟子が言い放ちました。「うるさい人がいなくなり、我々は自由になったんだ。喜ばしいことだ」と。釈尊の正法が正しく伝持されないと、このような者が増えて教団はバラバラになってしまう。だから経(教え)と律(規則)を釈尊の金言として伝持し皆がひとつになろうということです。しかしそれ以上に尊者の心中には、先の暴言が年長者の口から出たことへの不審感もあったと思います。年長者がこれでは若い人たちへの悪影響は計り知れない。最高齢者として尊者の心中にそんな止むに止まれぬ思いがあったのでしょう。早速、王舎城に五百人の阿羅漢を集めて結集を開催する宣言をしました。それまで質素に求道生活していた尊者の初めてのそして最後の表舞台でした。
 
 結集が終わると摩訶迦葉尊者は、教団の後のことをすべて阿難尊者に託して、一人山中に消えていきます。伝説によると、遥かな未来に出現するという弥勒如来に釈尊の付属を伝えるため、涅槃に入らず入定し、その身体は今でもマガダの鶏足山(けいそくせん)の山中に保たれてるといいます。最後までストイックな姿勢を貫いた摩訶迦葉尊者です。私たちには決してまねのできない生き方ですが、ある種のカッコよさを感じるのは私だけでしょうか。

 

   (あおはら のりさと 広島仏教学院講師・眞光寺住職)