真反対のことが一つ

 

親鸞聖人の言葉のなかに、「真反対のことが一つ」と明かされるところがあります。『正信偈』「曇鸞章」で「証知生死即涅槃」 (生死すなわち涅槃なりと証知する)もその一つ、「生死」は「まよい」、「涅槃」は「まよい」の無い「さとり」を意味し、両者は真反対のことですが、信心が育つと、それが一つのこととして受け取れるとおっしゃるのです。同じく『正信偈』「釈迦章」でも「不断煩悩得涅槃」(煩悩を断たずして涅槃を得る)と、「煩悩を断って涅槃を得る」という常識を覆して、「煩悩」と「涅槃」の相反することが一つのこととして成立するといわれています。


そこで多くの解釈では、矛盾しないように「不断煩悩得涅槃」を、「涅槃」を得るのは浄土のこととし「この世では煩悩を断つことはできなくても、浄土で涅槃を得ることができる」と解釈します。また「証知生死即涅槃」の文も、涅槃を「すくい」と解釈して、「まよいの私をそのまま仏さまがすくわれると知らされる。」と理解します。

 

しかし、このように矛盾しないように解釈するのではなく、矛盾は矛盾のまま、「真反対のことが一つ」といわれる親鸞聖人の意趣を大事にすべきだと、私は思うのです。

 

親鸞聖人が「真反対のことが一つ」といわれるのは、私と仏さまの関係について、もっといえば、仏さまとの関係を通して「私は何者か」という自己の実相(真実のすがた)について明かされたところです。信心を得て信心の智慧から見るならば、私が煩悩以外の何者でもないことが見えてくる。そう見たのは私だが、もはやそれは仏さまの眼である。煩悩そのものの私と、それを見つめる仏さまの眼が私の内に同居するという「信心のしくみ」を「真反対のことが一つ」といわれるのです。

 

このように「真反対のことが一つ」という信心のしくみを通して、私の実相を知る方法は、現代人が直面している「自己喪失」の問題とも連関して、今一番大事にしなければならない親鸞聖人の教えだと思います。「自己喪失」とは「自分がほんとうに何を感じているか、何をしたいのかわからない。自分で自分がわからない。」こんな不安の感情で、高じると心の病になり、最悪の場合は自らの命を断つ事態にまで進んでしまいます。そこでその防止策として生命の尊さを説きますが、あまり効果がありません。

 

私は私でありながら「私って何者」と問わずにおれない自己喪失感は人間特有のものですが、ことに現代では多数の人がもたざるをえない感情といわれています。それについて姜尚中氏は『悩む力』なかで、かつては所属する家や村落の共同体の宗教や習わしが強固にあって、人生の中で遭遇する出来事に対して、それが用意した答えに従っておれば対処できた。ところが近代に入ると、人々は共同体から解放され「何を信じても自由」となり、そうなると「何を信じてよいかわからない」、さらには「何も信じられない」、その果てに「自分すら信じられない」という自己喪失の時代にまできてしまったというのです。「自分すら信じられない」時代には、私の外に仏さまや浄土をたて、それを対象にして信じるという信仰ではもう無理。見失った本来の私と出遇うことと一つとなって、私の内なる仏さまに出遇うという信心の内容にならないと現代人にはとても通用しないと思うのです。そのことについて才市さんはこう詠んでいます。「如来さんはどこにおる/如来さんはここにおる/才市がこころに満ち満ちて/南無阿弥陀仏を申しておるよ」「才市や、如来さんはだれか。/如来さんかい。/へ。如来さんは、才市が如来さんであります。」

 

しかし「才市が如来」といっても、才市はどこまでも「地獄の鬼」「あさましい才市」、如来とは真反対、光と陰の関係でいえば、如来の光をさえぎる陰としてある私です。しかし陰があるということは光が照している証拠、いわば陰は光の裏返しになった光の現れ、という意味では、光と陰、如来と私は一つです。次の詩も才市さんが詠ったものです。「陰をみよ。/娑婆の光も、陰がある。/光のおかげで、陰がみえるぞ。」光と陰のごとく「真反対のことが一つ」というしくみは、ほんとうの私が見えない、私がわからないという「自己喪失」から本来の自分に遇っていく方法、これを心理学などでは「自己客観化」というそうですが、ちょうど鏡を見てはじめて自分の顔が見えるように、鏡の前に立って真実の私を見つける道です。さて鏡を何にするか、わが知性や良心であったり、しかし知性も良心も、身びいきの自己中心性をまぬがれず、そんな鏡からは歪んだ私しか見えてきません。私を超えて真反対の存在、仏・如来を鏡にしてこそ、より真実な私が見えるのです。しかし私をどれほど超えていても、鏡と鏡の中の私は一つのように、仏と私は真反対でありながら一つであることが大事です。鏡に見えた私の真実の相は「地獄一定」「煩悩そのもの」、そうであっても、それをわが生命の根源として安心して背負えるのは、煩悩がそのまま如来と一つという世界に支えられているからです。

 

現代人には、予め用意された答えを学習し、それを平易に説明するといった教化ではなく、求められているのは、答えではなく、どうすれ見失った本来の自分に遇えるか、従って仏に遇えるか、自らの体験を基調にしたその道筋と方法の提示だと思います。

 

( ちくだ てつゆう 広島仏教学院講師・法光寺住職)