呪術と科学 (2人のフレイザー)

フレイザー錯視
フレイザー錯視

 右の図をご覧ください。白黒交差した線が渦巻き状に続いているように見えます。しかし、この線を手でなぞってみると、本当はいくつかの正円の組み合わせであることがわかります。(太い白円は私が補助に入れたもの)この図は「フレイザー錯視」と呼ばれるもので心理学者ジェームス・フレイザーによって1908年に提案されたものです。特に錯視の原理を巧みに表した図形のため「錯視の王様」とも評されています。「錯視」とは「視覚による錯覚」で、だまし絵のような見間違いとは原理が全く異なります。フレイザー錯視は、「直角に近い鋭角は、直角として視覚化される」ことによります。視覚の作用で、実際の絵と、脳に写った絵との間にずれが生じているのです。ですから、凝視すればするほど渦巻き状に映るのです。

 

さて、この錯視図が提案されたのと同時期に、活躍した著名な人類学者にジェイムズ・フレイザー(1954-1941)がいます。先ほどの錯視の提案者フレイザーと同姓同名ですので同一人物のように思えますが、また別の人物です。人類学のフレイザーは、呪術研究の先駆者です。世界各地でみられる信仰、魔術、呪術、慣習などの事例を収集し、十一巻にもわたる著書『金枝篇』を四十年かけて執筆します。

 

彼は呪術を大別して二種類の原理によるとし、それぞれ「模倣呪術」と「感染呪術」と名づけます。模倣呪術とは、似たものは似た結果を呼ぶというものです。例えば、雨乞いの際は、雲に似た煙を用いることで雨という結果を期待します。一方の感染呪術とは、一度接触したものは離れても影響し合うというものです。まじないやのろいでは、対象とする人物の髪や衣服などを用いる場合が多いのが、これにあたります。

 

フレイザーは、このような呪術は、科学と同じ、理性的認識方法に由来する「観念連合」の作用と考え、「疑似科学」と呼びました。因果関係を正確に捉えたものが科学であり、誤って認識したものが呪術であると考えたのです。雲が現れれば、雨が降るという正しい因果関係の認識が科学であり、雲に似た煙を用いることによって雨を期待するという誤った理解が呪術と考えました。このことは、後に研究者の間で議論を呼び、大いに批判されていきますが、呪術を類型化して研究した彼の功績は高く評価されています。

 

さて、フレイザーは、呪術と科学は正誤の違いはあるにせよ、同じ認識方法、観念連合の作用と考えました。一方宗教については、全く異なる理解をしています。彼は宗教を「自然および人間生活を左右し支配すると信じられている、人間以上の力に対する宥和(ゆうわ)・慰撫(いぶ)である」と定義します。科学や呪術が、自然や事物の因果関係の人間の理解という範疇に収まるのに対し、宗教は、それを超えた力に対する人間の態度と位置付けたのです。

 

さらに宗教と呪術を次のように区別します。宗教は超自然的力に対し人格的に捉える傾向があり、人間の願いや請求に応ずることを期待するものであるが、呪術はその対象を非人格的、非意識的力として、力を取り込もうとする立場であるとしました。さらに、宗教は対象としての力を人間以上のものと認め崇め、その前にへりくだるという態度をとるが、呪術は、非人格的な力を、道具や動物のように自分が操作しようとする姿勢をとると区分しました。

 

また、その歴史的起源にも言及し、太古の人類は呪術のみによって生活を営んでいたが、やがて呪術儀礼の無効性に気づき、雨乞いをしたからといって雨を降らすことができない自己の無力を自覚します。そして自己の無力、無知を知った人間は、自分以上の力の前に頭を垂れて随順するに至る。呪術の時代から宗教の時代へと移行したと考えました。

 

さて、フレイザーがこのような学説をとなえていた頃、冒頭でふれた「錯視」は人間の視覚能力の欠陥と捉えられていました。実際の絵と、まぶたに投影される映像との差は「誤作動」だと考えられたのです。時を経た現代、最新の医学をもってしても錯視のメカニズムのすべては、まだ解明されていません。そうした中、人間科学の視点から、錯視は欠陥ではなく、むしろ人に備わった「特性」として受け止められています。必要な事柄に焦点を当て把握するためのもの、とした理解です。

 

このように近代科学の発展の中、合理的でないものは、ひとたび「誤り」と受け止められました。これはフレイザーが指摘した「呪術」的な事柄にとどまらず、宗教的な営みとしての「信仰」「神話」「儀礼」さえもその対象とされました。

 

それが今、社会や人間を対象とした分野で、見直されています。人は機械的、ただ合理的にのみ生きるのではありません。不条理とも思える世界や社会の中で、様々な感情を抱えて生きています。理性の上に成り立つ科学ですが、また理性があるからこそ、人間は宗教的な営みを持つのです。

 

人間の姿、社会の姿を、凝視すればするほどに、宗教的な営みがみえてきます。それは、まるで「錯視」のようです。「何のために生きるのか」「死んだらどうなるのか」こうした問いを理性的な人間は持たざるをえません。その問いを求めれば求めるほどに、人間、社会、自然を超えるものの姿が、自ずとあらわれてくるのでしょう。

 

人間の営みには、必ず宗教的な営みが付随しています。信仰、儀礼、神話などの宗教の諸要素、それはそのまま、もっとも人間的な要素であり、芸術や音楽などあらゆる文化の底に共通してある。人間科学の立場からそのように考えることができるのです。

 

(あさのしゅうじ 広島仏教学院講師・万福寺副住職)