念仏を生きる 〜親鸞聖人が目指した地平〜

 

輝ける末法の世である。

不安と混沌のなかで、それでも群がり生きる者たちは、明日を信じて生きている。

その群生のエネルギーが、念仏であった。

念仏は、今日を生きる糧であり、明日を夢見る力である。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

血で血を洗う武士の戦いの中にも、天地を裂くような念仏の響きがあった。

〝愛おしさも、憎しみも、超えて生きてゆけ!〟

ああ、われら、ここにありて、大地の願いを得たり。

滅びゆく人類にも、遺され伝えられる真理の言葉がある。

 

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

 

(「平家と念仏」より)

日野範綱(のりつな)は後白河上皇の近臣として、権力闘争の渦中にいました。平清盛の全盛期におこる鹿ヶ谷の変では、捕らえられて痕が残るほどの拷問を受け追放されています。またその後、京都に攻め上ってきた木曾義仲からも、鎌倉幕府を開いた源頼朝からも追放されます。後白河上皇が亡くなった時には棺を担ぐ一人であり、その後隠遁(いんとん)してゆきます。この方が親鸞聖人の叔父であり、得度の後見人を務めたと『御伝鈔(ごでんしょう)』は伝えています。

 

親鸞聖人が九才で出家するのも、前年の以仁王(もちひとおう)の乱によると思われます。平家追討の令旨(りょうじ)を出した以仁王が討たれ、首実検に呼び出されたのが、範綱の弟の宗業(むねなり)でした。その弟有範(ありのり)も三室戸に隠遁して入道となり、子の親鸞聖人も僧侶となるしか道がなかったようです。

 

後に親鸞聖人が「権力者の助けをかりて念仏を弘めようと思ってはならない。念仏が弘まるのは、仏のおはからいによる」(『註釈版』七七二頁)と言われるのも、政治の危うさ、権力の恐ろしさを肌で知っておられたに違いないのです。

 

二十年にわたる比叡山の修行によっても救いを見いだすことができなかった親鸞聖人は、二十九才の時に比叡山を下りて、京都東山の吉水の草庵で念仏の教えを説いていた法然聖人に遇い、生死(しょうじ)を超える道が開かれます。三十三才には、法然聖人から主著の『選択集(せんじゃくしゅう)』を伝授され、真影(しんねい)の図画も許されます。正当な後継者であると認められたのです。その喜びもつかの間、三十五才の春には、承元(じょうげん)の法難と呼ばれる念仏禁止によって牢獄に入れられ、拷問を受け、越後(新潟県上越市)に流罪になります。

 

『教行証文類』後序には、その念仏弾圧は、奈良の仏教界の総意によって出された興福寺
奏状(そうじょう)によるものであると明言し、天皇もその配下の官僚も間違っていると厳しく批判しています。(『註釈版』四七一頁)

 

上臣下(しゅじょうしんか)、法に背き義に違(い)し、忿(いかり)を成(な)し怨(うらみ)を結ぶ。これによりて、真宗興隆(こうりゅう)の大祖(たいそ)源空法師(げんくうほっし)ならびに門徒数輩(すはい)、罪科を考へず、猥(みだ)りがはしく死罪に坐(つみ)す。あるいは僧儀を改めて姓名(しょうみょう)を賜(たも)うて遠流(おんる)に処す。予(よ)はその一つなり。

親鸞聖人は四十二才の時に、流刑地の越後から、家族とともに常陸(ひたち)国(茨城県)に趣きます。関東で二十年間、お同行と念仏を喜び、六十才を過ぎて京都に帰ります。

 

それから二十年を経て、関東は戒律が重視されるようになります。すると、「戒律を守らなくても、念仏だけで浄土に往生することができる」と説いていた信願坊などは、「悪いことはいくらしてもかまわない」と主張する造悪無碍(ぞうあくむげ)の徒であると烙印(らくいん)を押されてしまいました。

 

 八十才過ぎの親鸞聖人は、関東で造悪無碍の邪義(じゃぎが)ひろまっていると誤解して、子の慈信房善鸞(ぜんらん)を派遣します。もともと誤解から始まっていますから、意見がすれ違いのまま、ついに善鸞は土地の権力者である領家・地頭・名主の力で造悪無碍を取り締まろうとしたようです。親鸞聖人八十三才の、建長七年(一二五五)と推定される九月二日付けの善鸞宛の手紙には、「入信坊・真浄坊・法信坊」(『註釈版』七九一頁)のことを心配されています。この入信坊たちこそ、善鸞もしくはその背後にいた哀愍(あいみん)房によって、造悪無碍の邪義として訴えられ、鎌倉幕府に留められることになるのです。

 親鸞聖人がそのことを知ったのは、十二月の円仏房の上京によります。親鸞聖人は十二月十日の夜の火事で、二十年住んでいた五条西洞院の住居を失い、弟の尋僧都有(じんうそうず)の善法房に仮住まいされます。その直後の十四日に、円仏房は訪ねてきました。(『註釈版』八〇四頁)主人の許可もなく、常陸国奥郡(おうぐん)(茨城県北部)から上京してきて、師の信願坊の窮状をせつせつと訴える姿に、真実を知ったのです。

 親鸞聖人は翌年建長八年一月九日の真浄坊宛の手紙(『註釈版』七七三頁)で、初めて善鸞が間違っていたと記しています。そして五月二十九日、ついに善鸞を義絶するのです。(『註釈版』七五二頁)

 この悲しい出来事の中で、親鸞聖人がたびたび思い出しておられるのが、恩師法然聖人の言葉でした。念仏が禁止されることこそ末法の証明であると、釈尊も善導大師もおっしゃっているので、恐れることはありません。念仏に迫害を加える人もたすかれと念仏しなさい。(建長七年九月二日付け「念仏の人々の御中へ」、『註釈版』七八七頁)

 また建長八年五月二十九日に出した義絶状とすれ違いのように届く、六月一日付けの性信坊の便りに、性信坊の尽力で裁判が解決して、鎌倉に留められていた入信坊などが郷里に帰ることができたことを喜んでおられます。その七月九日の返事に、次のように述べられます。

 自身の往生がまだ定まっていない人は、自らの往生を思って、「必ず救う」という弥陀の慈悲をいただいて念仏しなさい。すでに自身の往生が決定している人は、阿弥陀仏のご恩に感謝する報恩の念仏をいのちに響かせて、世のなかが安穏でありますように、仏法が弘まりますようにと願いなさい(『註釈版』七八四頁)

 つまり念仏は、末法に闇の世を照らす光であり、悲しみのいのちに開かれたひとすじの白き道なのです。

        なもあみだぶつ。合掌。

(おかもと ほうじ 真宗学寮教授・本願寺派布教使)